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久能山東照宮

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4月2日日曜日、空の雲が少し厚い日、久能山東照宮に行って来た。駿河区聖一色の東豊田交番の交差点からロープウェイの日本平駅まで車で10分くらいととても近い。駐車場も広くて、車を止めるのに困らない。ロープウェイは5分おきに出ているということで、ほとんど待たないで乗れる。往復1100円、久しぶりに乗った。今日は街中で静岡まつりが開催されているので、観光客もそんなに多くはないようだ。臆病な僕は、ロープにぶら下がった乗り物が急に落ちたりするんじゃないかとヒヤヒヤしていた。でもすぐに慣れるもので、そんなことは忘れて窓から見渡す絶景に見惚れていた。

 

 

振り返ると日本平からだいぶ離れて下は深い谷、90メートルくらいだって。屏風谷は切り立った断崖絶壁、案外迫力がある。残念ながら海側は曇っていて海らしく見えなかった。

 

 

久能山駅に着いてしまえば、乗っている時間は意外と短い。もう少し乗っていたかった。道中、ガイドさんが屏風谷や久能山のことを説明してくれて飽きさせない。なかなか快適だった。久能山駅に着くと、そこに御神木の楠がある。樹齢500年だそうだ。近くで見たかった。

 

 

駅を出ると、しだれ桜が出迎えてくれた。社務所と売店の間、高いところから降り注ぐような桜の花。まだ満開ではないようだけど、華やかな春の空気が満ちている。

 

 

 

社務所を過ぎて、まずは今回根性がなくて登れなかった石段を上から眺めようと海の方に進む。すぐ左手に、小さな瓦屋根を持津井戸が目に入ってくる。「勘介井戸」と書かれている。なんでも、かつてここが武田信玄によって城が築かれたとき、軍師の山本勘助が掘ったと伝えられている。深さは33メートル、こんな山の上でも水が出るんだね。そもそもこの地は、平安時代に創建された久能寺があったところ、名称を補陀落山(ふだらくさん)久能寺と称していた。一時は僧坊も330あり非常に隆盛を極めていたという。行基や聖一国師なども訪れている。その後1568年(永禄11年)武田信玄が駿河に入ったときに、久能寺を今の撤収寺に移してここに久能城を築いた。武田氏が滅んだ後に城は徳川家康のものとなって、家康が駿府亡くなると(1616年)遺命によって遺骸を葬られた。そのときに社殿も整備され、本殿、石の間、拝殿(合わせて一棟)が国宝になっている。

 

 

井戸を過ぎて石畳を進むと、右に折れて一ノ門に出る。ちょっと雰囲気があるね。古くは櫓門だったそうで、明治期に暴風雨で倒壊したので平屋に改修したそうだ。この写真の右の方、門から入った突き当たりに門衛所がある。ここで入ってくる人を見張っていたんだね。

 

 

門をくぐると、目の前に海が広がる。木々の鬱蒼としたところから、急に光の溢れる世界に出た。左遠くに見えるのは伊豆半島だね。天気が良ければ、海と空の青が光溢れて眩しかったはずだ。

 

 

下を見下ろすと、急な石段がうねうねと下界に通じている。この石段を登ってくる勇気がなかった。下の鳥居から一ノ門まで909段、拝殿まで1159段だとか。

 

 

ちょっと下の方まで降りてみる。登るのがきつそうだから、すぐにまた戻る。昔登ったことがあったような気もするけれど、はっきり覚えていない。夢かも知れない。だいぶ前に来たときも、ロープウェイを使ったはずだ。下から登ってくる人も結構いる。子供もいる、犬もいる。下には無料の駐車場がないからね、を言い訳にする。

 

 

一ノ門まで戻ってみると、門はやっぱり渋い。

 

 

時間があまりないので、さあ奥にいそごう。見事なしだれ桜のその先には楼門が見える。入り口で参拝料500円を払う。博物館に入るかどうかは後で考える。

 

 

見上げると朱に塗られた門が覆いかぶさる。額は後水尾天皇の宸筆、「東照大権現」とある。左右の格子の中にはそれぞれ随身がいる。格子の上の壁面に獅子や獏に波の絵、門の裏には狛犬と獅子がいる。楼門と東照宮を守っている。

 

 

楼門を抜けると、正面に一段高いところに唐門と拝殿が見える。この右手には久能稲荷神社と厳島神社、左手には神厩(しんきゅう)。

 

 

朱塗りの鳥居をくぐって参拝。

 

 

埋葬当時は家康の愛馬を飼育していたけど今は木造の神馬、左甚五郎の作と伝えられている。白い可愛らしい姿が外からも見える。

 

 

手水舍でお清めしてお参りする。

 

 

鼓楼、元は鐘楼だったけど、明治の神仏分離で鐘を太鼓に変えたんだそうだ。

 

 

五重塔跡、三代将軍家光の命により建てられた高さ30メートルの五重塔があったところ。やはり神仏分離の際に取り壊されたという。中心にあった礎石を手前に移してか代わりに駿府城内にあった蘇鉄を植えている。

 

 

さて、さらに石段を登ると正面に唐門、ここは通れない。右手の参拝順路を進む。

 

 

その前に、さらに唐門を見上げる。石段の上の唐門は曇り空の弱い光を受けて鈍く輝いている。金と極彩色の華やかさを漆の黒が引き締めている。

 

 

拝殿右の石段を登って振り返るとしだれ桜が見事だ。青い空が少し覗くと良かったんだけどね。銅葺きの屋根と桜は似合うね。

 

 

 

拝殿の右脇にあるのは日枝神社。これも元は薬師如来をお祀りしていたのが神仏分離で山王社の御神体を納めたそうだ。参拝。

 

 

いよいよ、社殿に向かう。この東門は重要文化財になっている。朱の柱と緑の透かし塀、梁の金と青の文様、屋根の金箔が煌びやかだ。

 

 

東門をくぐると、そこには白無垢に綿帽子の花嫁と紋付袴の新郎の姿が。突然目の前に現れた光景に驚かされた。これ本当の結婚式かなあ?撮影用?それにしても、この光景は美しかった。ウェディングドレスもいいけれど、日本人は白無垢だなあ。綿帽子がまたいいね。角かくしよりいいなあ。場所が東照宮だからさらにいいね。黒漆と金箔の社殿が背景だから白無垢姿が浮かび上がるね。今日はいいもの見た。写真撮っちゃったけど、おめでたいものだから良いよね。支障があったらおしらせください。

 

 

新郎新婦は姿は、それがまるで夢だったみたいに見えなくなった。東照宮で結婚式っていうのもいいね、披露宴は日本平ホテルだろうか?なかなかいいね、僕には関係ないけど。それはさておき、拝殿の漆の黒が深い、黒と金と朱の取り合わせは力強くて豪華だね。所々の青が効いている。青は瑠璃色と言って薬師如来の放つ光の色だとか。暫く見惚れて言葉を失う。

 

 

唐門から境内を見る。楼門の向こうに海が見えると思ったんだけど、見えなかった、曇っているから?唐門も極彩色の神獣の透し彫りが見事。この門は通れない。特別な時にしか使わないんだろうか。

 

 

暫く見事な社殿に見入っていたけど、まだ先があると思い出して先に進む。拝殿の左側を通って行くと神廟の参道がある。と思いおつつ拝殿の側面を見る。完璧な美しさだよね。社殿は拝殿、石ノ間、本殿が一棟に作られている権現造というもので、ここが全国に数ある権現造の起源なのだそうだ。これより古い神社の社殿は、拝殿と本殿が一つの建物として繋がっていないんだと。石ノ間というのは、石が敷いてある訳じゃなく、て一段低くなった廊下が発達してような、相の間というものだそうだ。

 

 

振り返ると大蘇鉄、樹齢650年。神社仏閣に蘇鉄は多いけど、長く生きることから縁起が良いということなのかな。

 

 

本殿の側面がまた見事としか言いようがない。他の観光客も暫く言葉もなく見惚れていたよ。

 

 

ここは陰になっているので実際は少し薄暗い。でもそのため却って重厚さが際立っていた。黒漆に浮かぶ瑠璃色の獅子に目が釘付けになる。

 

 

本殿横から神廟の参道に通ずる廟門。小さいけれど、特別な場所に至るための特別な門という感じがする。

 

 

廟門から振り返ってみる。いつの間にか他の観光客もいなくなって、僕一人になった。人がいなくなると、ここは一層荘厳な空気に満たされる。

 

 

神廟に至る参道。家臣、大名が寄進した灯篭だろうか。石段を登って鳥居をくぐって右手に神廟がある。

 

 

現在の神廟は、創建当初は木造桧皮葺の造りであったものを三代家光のときに石造の宝塔に変えたとのこと。高さ5.5メートル、外廻り約8メートル。静寂の中で際立つ存在感。家康が亡くなった翌年に御霊は日光に勧請しているけれど、遺骸はここにあるんだろうね。棺に中に正装して座り西を向いているという。

 

 

木々に囲まれたひときわ静かな場所だ。神廟は西を向いているそう。西には家康の生まれた地岡崎がある、というより極楽浄土の方角を向いているんだろうね。

 

 

一通りお参りして気も済んだので、来た時と逆の行程で日本平駅まで戻った。あ、博物館は今回は止めておいた、時計は以前見たことがあるし、時間もあまりなかったので。ロープウェイで日本平駅まで戻ってついでに展望台に行ってみた。以前来たときと変わっているかも知れないなと思って。童謡「赤い靴」の像があった。これは昭和61年に設置されたもの。野口雨情の詩に本居長世が曲をつけて、誰もが口ずさんだ童謡は、実はモデルがいたそうだ。名を岩崎きみといい、明治35年旧不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)で生まれた。きみちゃんの母親は事情があって北海道に渡りそこで再婚することになって、3歳のきみちゃんは外国人宣教師の養女に出すことになったそう。野口雨情はその話を聞いて詩を書いたという。残念なことに、きみちゃんは実際はアメリカに渡らず、当時不治の病である結核に罹り、東京の孤児院に預けられて9歳という若さで亡くなった。そういう話を聞くと、この母子像もまた感慨をもって見ることができる。天国でお母さんと一緒に幸せに暮らしていると良いね。

 

 

展望台から見た清水の景色、曇っていて残念だけど、晴れの日とはまた違った雰囲気がある?真ん中に見えるのは三保の松原、折戸湾あたり。折戸湾周辺は開発計画があって、マリーナやホテルなんかが整備されるらしい。三保半島の向こう側が駿河湾で、その向こう少し右寄りに伊豆半島が見える。三保半島の先端、海を挟んで山が迫っているあたりが薩埵峠か。天気が良ければその向こう側に富士山が見えるはずなんだけどね。

 

 

展望台を後にして日本平ホテルに行ってみた。2012年の改築後は来たことがなくて写真でしか見たことがなかった。正面入り口からの景色が素晴らしいので一度来てみたかった。いやいや、これは素晴らしい。遠方からのお客さんを連れて来れるね。晴れていれば富士山と三保の松原、駿河湾と伊豆半島を見渡せる。テラスラウンジでお茶でもしたかったけど、待つようなので諦めた。

 

 

曇り空で写真はダメかと思ったけど、富士山がなくても、曇り空でもなかなか素晴らしい景色だ。夜景も良いだろうね。

 

 

全ての客室で富士山と三保、駿河湾の景色を楽しめるつくりになっているようだ。とてもモダンなデザインだよね、いつか機会があったら泊まってみたいものだ。アッパーラウンジからの眺めも良さそうだ。

 

 

 

 

 

清見寺 其の二

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清見寺、大方丈前の臥竜梅。徳川家康が今川の人質であった頃に接ぎ木したものだそうだ。この梅も400年にわたって歴史の移り変わりを見てきたことになる。ちらほら花ををつけていた。与謝野晶子はこの梅の木を見て、「龍臥して法野教えを聞くほどに 梅花の開く身となりにけり」と詠じたそうだ。ありがたいお経を聞いているうちに、龍も梅花をつける木に変わったんだなあと、なかなか素晴らしい歌ではある、と短歌など知らない僕は思った。そういえば、静岡に臥竜梅というお酒がある、この梅の木から名前をもらったようだ。残念ながら飲んだことはないけれど、機会があったら飲んでみよう。この近くにある三和酒造さんのお酒だ。

 

 

臥竜梅の前あたりに鐘楼がある。この鐘楼の鐘は600年前に造られたもので、豊臣秀吉の伊豆韮山上攻伐の際に陣用の鐘として供されたものだそうだ。

 

 

下から見上げると、丁度楼の背後から日の光が射して神々しい。額には「瓊瑤世界」(けいようセカイ)とある。何のことだかさっぱりわからないけれど、何でも、瓊と瑤とはどちらも光り輝く玉のことで、二つの玉は互いに光を照らしあってさらに輝きを増すという意味だそうだ。第5回朝鮮通信使節の読祝官・朴安期が書き残したものとのこと。ここから見る浜の景色と寺の庭園が素晴らしかったんだろうね。

 

 

庫裡から中に入る。入ると三和土があって、上を見上げると大きくて煤けた梁が歴史を感じさせる。鐘を鳴らすと人が出てきて、内部の見学をさせてくれる。何があるのかと期待して大方丈に進むと、窓から差し込む光と陰に緋色の敷物のコントラストにはっと息を飲む。この窓越しの景色は、まだ浜が開発されていない頃にはとても素晴らしいものだったのに違いないと確信する。徳川家康はこの寺からどんな景色を見たのだろうか、朝鮮通信使はどんな美しい日本の風景を見たのだろうか。

 

 

大方丈をぐるりと巡る廊下を進むと、右手に庫裡と書院が見える。その中庭に見事な棕櫚竹がある。扇型に広がった細い葉の薄緑が瓦屋根に映える。心が洗われる。ここだけ微かな風が吹いているようだ。

 

 

庫裏と渡り廊下の瓦屋根と、棕櫚竹の落ち合わせがとても美しかった。瓦屋根は、最近防災の点で敬遠されがちだけれど、美しいよなあ。伝統的な日本の風景。

 

 

大方丈の裏に出ると庭園がある。右手には書院。にはは江戸時代初期に山本道斉によって造られたという。家康はこの庭を好み、駿府城から虎石、亀石、牛石を移したり、柏などの木を植えたりしたそうだ、手前の砂利が綺麗だ。

 

 

大方丈の真裏には、家康手習いの間の遺構がある。狭くて薄暗い部屋だ。幼少時人質の時に使ったのだろうけど、押入れを少し広くしただけのような部屋だ。そういえば、臨済時にある手習いの間も狭くて暗かった。部屋は暗くてシャッターがぶれたのでパス、方丈の西側に廻ってみた。そこは廊下の側面が経本などの物置になっているのだけれど、窓から白い光が差し込んで朱色の箱に反射する様子が美しかった。古い時間が流れているみたいだ。

 

 

廊下を一周ぐるりと回って、大方丈の南側正面に出る。このとき法事があったので、遠慮がちに写真を撮って静かにその場を離れた。正面に大きな扁額に「永世孝享」とあり、琉球王子の書によるものだそうだ。手前の顔が描かれた大きな額は咸臨丸の乗組員だろうか。

 

 

大方丈をぐるりと一周回って書院に出る。この書院は慶応三年(1867)に建てられたもので、徳川将軍が使う目的で造られたが使われず、明治になって明治天皇が遷都の際に、また北陸御巡幸の際に御成りになったということだ。床の間の左手に玉座がある。正面の額のある欄間には、出土した清見関の木材がはめ込まれている。

 

 

玉座は10畳くらいの広さだろうか、思ったより狭い。実際はあの一段高い畳の上に座っていなかったんじゃないだろうか、象徴的な座としてあるだけなんじゃないのかなって、勝手に思ってしまう。そんなこと考えるのは不敬だ。清見寺は、大正天皇も皇太子のときに何度か訪れて、海水浴で滞泊されたという。

 

 

書院奥の廊下から見た庭園。躑躅か皐月かが丸く刈り込まれていて愛らしい庭だと思うな。家康にはどのように見えたのかな。

 

 

 

書院を後にして、潮音閣に登る。潮音閣は、皇太子であった大正天皇が海水浴で滞在するにあたり、鉄道越しの眺望を確保するために庫裏の二階を増築したものだそうだ。三方をガラス窓として、駿河湾と三保の松原、右手に日本平、左手に伊豆の山々が見渡せる。その頃の眺望の素晴らしさは如何程であったろう。

 

 

今は清水港の港湾施設が殺風景だ。ただ、眼下には東海道線が走っているので、鉄道ファンには良い撮影ポイントになっているのかもしれない。

 

 

清見寺には、夏目漱石や高山樗牛、島崎藤村、北原白秋、与謝野晶子などの文人詩人が訪れている。国道沿いには、高山樗牛の寓居跡の碑がある。なんでも転地療養で興津三清館に滞在し、清見寺の鐘声を聞いたのだそうだ。実際の宿の場所は、もう少し海に離れたところらしい。

 

 

清見寺 其の一

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3月5日、日曜日、興津清見寺に行ってきた。ここは前から行きたいと思ってなかなか行けなかったところ、だいぶ前仕事の関係でチラ見したことがあるのみ。このお寺は7世紀後半にこの地に設けられた清見関の傍に建てられた仏堂が起源なのだそうだ。鎌倉時代の中頃には関聖上人が再興し、1962年には上人の師である聖一国師を招いて落慶法要を営んでいる。室町時代には足利尊氏の崇敬を受けて、「五山十刹」の十刹の一つに置かれ、駿河を領していた今川氏からも庇護を受けた。戦国時代にはこの地が海山が迫る要害の地にあることから今川、徳川、武田、北条などの大名が戦の陣を置き、一時期寺は荒廃したのだそうだ。それを復興したのが、今川の太原崇孚(雪斎)で、寺を臨済宗妙心寺派に属させている。徳川家康は駿府での人質のときに太原崇孚から教えを受けていたので、寺には家康手習いの間の遺構がある。また大御所となった後も再三清見寺に来遊している。また家康の三女静照院殿が仏殿本尊釈迦牟尼仏と大方丈大玄関を寄進するなど徳川家からの帰依を受けて、二百余石の朱印地を有する大寺院だったようだ。明治維新後も二度にわたって明治天皇の鳳輦(天皇の乗り物)を迎え、大正天皇は皇太子時代にしばしば御成になり滞泊されたそうだ。こうしてみると、本当に立派なご由緒のお寺だ。

 

国道1号線沿いにこの門はある。総門というのだそうだ。清見寺の正門にあたるのだろうか。石段の上に立つ形は小さくても品格があるなあ。石段を登って門をくぐると、東海道線の線路を見下ろすことになる。ちょっと残念。東海道線は明治22年に敷設されたようだ。額の「東海名区」の書は、朝鮮通信使玄徳潤(ヒョンドギュン)の筆によるものだそうだ。この字、なんでもないようだけど、いいなあ。こういう字を書けるようになりたいものだ。ちなみに「東海」というのは東海道の東海ではなく日本のことで、朝鮮の東の海の景色の素晴らしい場所ということだろうか。江戸時代には、朝鮮や琉球の通信使が江戸に向かう途中この寺に宿泊するのが通例だったそうだ。

 

 

東海道線の上をまたぐ橋を渡ってこの山門に至る。門前の石段はかつて使われていたものだろうか、石段を降りると東海道線が見下ろせる。門へは画面左から歩道を歩いて来ることになる。

 

 

 

山門の脇の六地蔵。六道を輪廻転生する衆生を救済してくれるお地蔵様だ。合掌、礼拝。

 

 

山門は慶安4年(1651年)の建立。この門も堂々とした立派なもので、木組が精巧にできているような気がする、素人なんでわからないけれど。施されている彫刻は、左甚五郎の弟子の作だそうだ。

 

 

小さくて見えにくいけど、梁の上に彫り物が並んでいる。

 

 

門をくぐった左の脇に、木蓮が一本すっと立っている。青い空に這う枝に白い木蓮の花が清浄な気を放っている。

 

 

明治維新のとき、脱走した幕府軍の軍艦咸臨丸は清水港に入ったが、新政府の討伐隊の襲撃を受けて乗組員らは惨殺されるという事件が起こった。その遺体は海に投げ捨てられ放置され死臭が満ちていた、しかし亡骸を葬ることは賊とみなされるので誰も手を出さなかったのだけれど、清水次郎長は亡骸を集めて葬ってやったのだそうだ。後に山岡鉄舟の書による「壮士の墓」が建てられ、清見寺においては供養の碑が建てられた。碑には榎本武揚の書により「食人之食者死人之事」と彫られている。徳川から禄をもらって食べていたこれらの勇士は徳川に殉じて死んだ、という意味だろうか。脱走した者だけど、それは時代が変わる中で起こった悲劇というべきで死した後はせめて義を貫いたものとして霊を慰めようというのかも知れない。ただ、福沢諭吉はこの碑を見て、また旧幕府軍を率いて徳川のために戦いながら降伏した後に新政府で出世した榎本武揚を批判している。榎本武揚についていって徳川のために戦い死んでいった者たちの気持ちを考えると、敵方の新政府で出世するなんてことは武士としてすべきことじゃないよね。そうそう、俗社会から身を引いて、亡くなった者たちの霊を弔うくらいすべきだよな。いや、詳しくは知らないけど。それにひきかえ、清水次郎長の行動はさすが街道一の大親分、義侠心の厚い大人物というべきだ。いや、こっちも良くは知らないけれど。

 

 

これは大方丈、入り口は左右の横にあり、左の大きな玄関は家康の三女静照院が寄進したもの、通常は右側の建物から続く廊下を通って入るようだ。内部見学の時はそうして入った。山門を入って右前方に位置する。一際大きな瓦屋根が寺のお大きさを感じさせる。あとでゆっくりと見よう。

 

 

山門を入ってまっすぐ進むと仏殿に至る。禅宗だからなのか、建物も簡潔で力強い感じがするなあ。

 

 

仏殿への石畳を進むと、右手に存在感を放つ建物がある。これが、静照院が寄進した大玄関らしい。壁の木材が古色を帯びているのは清見関の古材を使用しているからなのかな。なんでも鎌倉時代の梶原景時一族による戦乱の跡を伝える血天井だという。

 

 

大玄関が気になりつつも仏殿に進む。中を覗き込むと、この木像に出くわす。あとで調べてもよくわからなかったけれど、このお方は太原崇孚、雪斎なのだろうか?少しぎょっとする。合掌、礼拝。その奥に釈迦三尊像(釈尊、迦葉、阿難)がある。

 

 

仏殿を背にして右手に、大正天皇お手植えの百日紅の木がある。3月には葉がないのでつるつるした木肌が特に目立つ。

 

 

 

観世音菩薩像、昭和13年建立だそうだ。この右手、山の斜面に向かって五百羅漢の石像が並ぶ。

 

 

五百羅漢の石像群は、江戸時代中期のもので作者はわかっていないらしい。五百羅漢というのは、仏陀に付き添った弟子または仏滅後の仏典編集に功績のあった500人なのだそうだ。昔から亡者供養の一つとして、石像の中に亡き人の面影を探して供養することで冥福を祈るというものだ。若き日の島崎藤村は旅の途中に訪れて、小説「桜の実の熟する時」に五百羅漢のことを描いている。かなり昔によく読んだ覚えはあるけれど、その部分は全く覚えていない。だけどこうして石像の中に立っていると一つ一つが命を持っているかのようで、今にも動き出しそうな感じがする。ひそひそと話をしているようでもある。

 

 

一つひとつが違う表情、個性溢れる表情をしている。この中に亡き人の面影を探すのは、ちょっと難しい。それより僕は、人間というものの命のあり方はこの世の人間の数だけあり同じものなど一つもありはしない、個性ある一人一人の命はかけがえのない大切なものなのだということを突きつけられるような気がした。

 

 

五百羅漢は、山の斜面にも続く。これだけのものを一人で作ったのだろうか?これはきっと、命を持っているよ。夜になると動き出したり、がやがや話を始めたりするよ、きっと。斜面の石段を登る僕から見えないところにいる羅漢は、もうひそひそ話を始めている。心細くなるというよりは、安心感にも似た感覚が湧いてくる。

 

 

石段を登りきると、港の景色が良く見える。港湾設備のある場所は、かつては波が砂浜に寄せる景色がみられたのだろうか。戦国の大名たちが覇を争った戦の舞台でもあり、朝鮮の使節が東海名区と褒め称えた美しい風景が広がる場所でもあった。瓦屋根の向こうにいろんな時代のいろんな風景が見えるようだ。それはただ想像の中にあるのみで、現実の風景が昔に戻ることは決してない。

 

龍華寺

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3月5日、龍華寺。このお寺は江戸時代初期に日近大僧都という方が開いた日蓮宗のお寺だそうだ。なんでも大きな蘇鉄があるということでだいぶ前に来たことがあるけれど、あまり強い印象が残っていない。久しぶりに来てみると、広い駐車場もあって、全体が綺麗に整備されている感じだ。観光客が多く来るのだろうか。日近上人という人は、富士山を大変好んでおられたそうで、ここからの富士山の眺めが最も荘厳であるかと言って身延の大野山本遠寺からここに移ったのだそうだ。また上人は東山天皇から帰依を受けて、観富士龍華寺という寺名を賜ったのだそうだ。ということで、ここからの富士山の眺めは、さぞ素晴らしかったのだろうけれど、今では港や街並みの景色もだいぶ当時と変わってしまっただろうから、あまり期待はできないんじゃないだろうか。

 

駐車場が広いから、安心して来られる。すぐに山門がある。門の真ん中は特別な時にしか使わないのだろうか。その代わり両脇にで入り口があり、入る時は「厄除門」、出る時は「開運門」を通るようになっている。こういうのあまり見たことないけど、観光用かなあ?厄除門を入って、拝観料300円を払う。

 

入ってすぐに手洗いがあった。そこの仏様(かな?インドの神様かな?)が可愛かったのでというわけでもないけれど、まずは手を清めよう。

 

 

手を洗ってさあ、と歩みを進めると朱色のような扉の付いた小さめの門が石段の上に現れる。大正11年に昭和天皇がご訪問された時につくられた門なのだそうだ、なかなか素適な門だね。

 

 

行啓門を惜しみつつぐるりと通路を進むと、祖師堂に出る。日蓮上人をお祭りしているお堂で、まだ新しい。

 

 

中の天井には180枚の天井画が見事だ。

 

 

日蓮宗独特の配置によるお道具がとても立派で、荘厳な印象を受けて身が引き締まる。合掌。

 

 

この大蘇鉄は、樹齢推定1100年って、平安時代?すごい生命力だよね。まだあと1000年くらい平気で生きていそうなくらい、ワサワサ茂っている。これも徳川家からの寄進で中国からもたらされたものらしい。これが雄株、雌株も樹齢推定800年だ。

 

 

こちらは本堂。かやぶきの屋根がとても印象的。日近上人は徳川家康の側室お万の方の猶子(養子?)ということでご縁があり、この本堂と庭は徳川頼宣(紀伊)、徳川頼房(水戸)の寄進で建てられたそうだ。

 

 

本堂の南側が須弥山式の名園、観富園がある。龍華寺から駿河湾を隔てて富士山を望む景色を縮図にしたもので築山が有度山、池が駿河湾、本堂が富士山とする趣向。

 

 

確かにこのお堂の形は富士山だ。手前の松は亀松、樹齢350年。相当渋いね。盆栽にしたらいくらになるだろうか?

 

 

 

観富園の脇の階段を上ると七面堂、七面大明神とは、日蓮宗では法華経を守護する女神様だそうだ。このお堂は江戸初期のもだというのだけれど、そんな風には見えないなあ。とはいえ、ちゃんと手を合わせてお参りしてきた。

 

 

七面倒の奥、見晴らしのいい場所に高山樗牛のお墓がある。こんな素晴らしいお墓はなかなか見られない独逸式とあるけれど、こういうお墓に入りたいもんだ。ここからの富士の眺めが素晴らしいので死んだらこの龍華寺に葬って欲しいと遺言したんだそうだ。ただ、ここからの眺めは、今の時代はそれほどではないと思うんだけど。開発された港や町の景色は、ちょっと痛々しい。

 

 

高山樗牛のお墓から少し降りた、観富園の斜面あたりからの眺めは素晴らしいと感じた。実物の富士山ではなく、富士山を模したお堂、駿河湾の池、有度山の築山、この庭園の描く景色はいいなあ。

 

 

築山の中の小径を降りていくと、景色もいろいろに変わって楽しめる。大きな鳥がサーっと飛び去る姿に驚かされた。

 

 

 

 

サボテンは樹齢推定300年。このお寺は植物が育つパワースポット?これも日本最古、天然記念物だ。

 

 

その他いろいろ。樗牛館の寺宝。

 

 

 

 

 

なかなか盛りだくさんの龍華寺。また機会があったら、本堂と観富園をゆっくり見たい。

 

美和の桜

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2月19日、日曜日。青汁の片付けをした後、美和の桜を見に行った。10時ぐらいに着いた。駐車場がないので道路の端っこに車止めるんだけど、見物客がもう既に多勢来ていたので空きスペースを探すのに苦労した。暖かくて桜見物にはもってこいの日になったからね。桜並木への入り口に出店が並んでいて、野菜や焼きそば、おまんじゅうなんかも売っていた。今日は桜の写真を撮るだけだからと、食べたい気持ちをぐっと抑える。

 

 

美和の桜は、安倍川の土手に沿って植えられているんだね。土手の上は舗装された道路になっていて、近所の人が散歩したり桜を眺めたりしている。土手は安倍川の両側にあって、結構高さがある。僕は子供の頃、板やダンボールを尻に敷いて斜面を滑り降りて遊んだ。ちょっと懐かしい。

 

 

土手に沿って700メートル程、約100本の桜の木が連なっている。地域の人が植えたものだそうだ。河津桜だからか、花の色が少し濃いね。

 

 

 

土手の上を歩くのも清々しい。大きな松の木もあって、古い街道を歩いているような風情もある。

 

 

うす紅の桜の花と松の緑が意外と合うね。

 

 

親子で、家族で、春の暖かな日を浴びながら、ゆっくり桜を眺めていた。桜の木も誇らしげにポーズを取っているように見える。

 

 

安倍川の土手沿いには、かつて松の木がたくさん植えられていたんじゃないかな?僕の子供の頃の記憶では、土手と松の樹が結びついている。松ぼっくりやとがった落ち葉を拾って遊んだ。二本のとがった葉がくっついたところを交差させて引っ張り、きれなかった方が勝ち、みたいな遊びをしたっけ。ああ、それより桜が綺麗だね。

 

 

ところどころに菜の花も咲いていたりする。菜の花が美味しそうだ。やっぱりおひたしがいいな。落ち付いた器におひたしを置いて、そこに桜の花びらを少し散らすなんてのはどう?ああ、桜が綺麗だね。

 

 

この日はまた空が青くて、桜のうす紅色がよく映える。

 

 

 

夜の桜もいいけれど、日差しの中の桜がやっぱりいいね。

 

 

桜も、賑わう人の姿があると絵になるなあ。桜の木だけで、人の姿がないとどこか寂しい感じがするよね。長く厳しい冬を越えてついに春が来た、って祝いたくなるような気にさせるね。お花見なんて、世界中のどこにもないんじゃないの?世界に誇れる文化だよなあ。日本人の美に対する意識の高さだよね。ああ、おまんじゅう食べたかったなあ。

 

 

 

 

臨濟寺

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1月29日日曜日、久しぶりに臨濟寺に行って来た。テニスの後写真を撮ろうと思って行ってみたんだけど、この日は狩野派の襖絵の臨時公開日だった、ついている。それにしても臨濟寺にくるのは久しぶり。社会人になってから一度取材で来たんだけど、15年くらいた前だったかな?その前はというと、中学生の頃。この辺りにクラスの友達が何人か住んでいたので何度か遊びに来たことがある。その頃は少し古びたお寺という印象だったんだけど、今日来たらとても綺麗に整備されてていて驚いた。山門前の参道は美しい石畳、両脇にある池は庭園に整備された。かつてこの池はただの蓮池みたいな感じだったように思う。それはそれで風情があったというものだ。山門の額には「大龍山」の山号がある。これは徳川慶喜の揮毫によるそうだ。

 

 

山門の前には、竹箒と桶が置かれている。ここが修行の場だということを示しているんだろうか?何かを暗示するこういうやり方、ちょっといいよね。

 

 

山門を入ったところの、本堂に続く石段。ここは、中学生の頃に来た時に、強く記憶に刻みつけられていたところ。臨濟寺というとこの石段を思い出す。両側の瓦屋根のある塀と、石を整然と積んで作られた石段が長く続く様子、とても単純な力強さと美しさを演出しているよなあ。そう、城郭みたいな美しさ。

 

 

石段の上にも長い布が張り渡されていたけど、それがこの大方丈に繋がっていたんだ。これはどういう意味があるんだろうか?きっと意味があるんだと思うんだけど。深くて青い空に白い布がとても映える。訪れる人を大方丈へと導いているみたいだ。

 

 

大方丈は、国の重要文化財、額には「勅東海最初禅林」と書かれている。このお寺はもともと、出家していた今川義元のために父氏親が京都妙心寺から太原崇孚雪斎を招いて建立した善得院が始まりだったそうだ。その後、今川氏輝が急逝して弟の義元が家督を継いだ時、氏輝をこの寺に葬って寺の名前も氏輝の戒名からとって臨濟寺と改めたんだそうだ。開山は、雪斎の師大休宗休だけど、実質は第2代の雪斎なんだそうだ。さらに雪斎は、後奈良天皇の帰依を受けて駿河の勅願寺とし今川領国内に臨済宗を広め、また、今川の軍師としても手腕を発揮したということだ。方丈の額には「勅東海最初禅林」とある。 

 

 

振り返って街の方を見ると、陽の光を正面に受ける。碧い空に眩い光が溢れている。

 

 

方丈というと狭い空間を思うけど、仏教では方丈に全宇宙が内在すると考えられて、住職の生活する場所も方丈と呼ぶそうだ。この大方丈も仏像や位牌を安置した部屋や勤行をする部屋、応接をする部屋、書院などが備えられているようだ。その部屋を区切る襖に描かれた絵を見ることができた。光量が足りなくて写真はうまく撮れなかった、竹虎、雲龍など障壁画は、筆者はわからないけれど江戸初期の狩野派の様式で描かれた貴重なものだそうだ。

 

 

大方丈の裏には山の斜面を利用した庭園を見ることができる。斜面の上に見えるのは茶室で、今回は公開されていなかった。たしか屋根の付いた細長い廊下と階段をを通っていくんじゃなかったかな。

 

 

大方丈から大書院に行くには、急な階段を上っていかなくてはならない。お年寄りが昇るのはかなり大変だ。荷物を階下において四つん這いになって登らなければならない。お年寄りが転がり落ちそうで怖い。でもこの階段は、二度の焼失を免れた唯一創建当時のものなんだそうだ。

 

 

階段の脇の中庭には、猿と兎の石の彫り物が置かれていた。禅問答でもしているかのようだ。

 

 

書院の襖にもいろんな図柄の襖絵が描かれている。これは竹林の七賢図かな。他にも、富士と三保や孔雀などがあったけど、やっぱり暗くて混んでいてうまく撮れなかった。額の字もじっくり見たかったなあ。

 

 

 

書院から見た庭園。国の名勝に指定されている。方丈の裏手から見るよりも、ここ書院から見た方が美しかった。冬で緑が少なかったからかな?

 

 

書院の庇に切り取られた庭園は、ちょっといいね。緑のきれいな季節に見てみたい。できれば一人でね、ちょっと混んでいて、落ち着いて見ることができなかった。

 

 

 

竹千代手習いの間。実際はこの部屋で手習いはしなかったそうだ。駿河が武田信玄によって攻められた時に寺も焼けたんだそうだ。じゃあ一体これは?深く考えるのはやめよう。

 

 

書院を出て大方丈の奥を部屋を見た。左が今川義元公、右が今川氏輝公。

 

 

大方丈の奥、渡り廊下を渡ったところに開山堂があり、太原雪斎と代休宗休の像が安置されている。どちらの像も精巧に作られていて、像の前に座ると目があって生きている人と対面しているかのよう。部屋が暗くて写真はピンボケになった。明るいレンズが欲しい。

 

 

寺を出て振り返ると、寺の山門が碧い空に向けて気を放っているかのようだった。中学生の頃の記憶にある臨濟寺とは違って、少し身近に感じられた。その頃は修行の寺ということで、山門から中には入れなかったんじゃなかったかなあ。今川の文化歴史も、もっと見直されてもいいよね。

 

 

 

 

 

 

2017静岡浅間神社、初詣

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2017年、今年は青汁スタンドを始めてから11年目の年。10年前、母親の交通事故をきっかけに公務員生活に決別し、無謀にも両親が始めた青汁スタンドを継いでしまった。この10年間は、本当にいろいろなことがあった。公務員をやっていたら知ることもなかったであろうことを沢山学んだ。長いようだけど、あっという間に過ぎたな。10年終えて11年目に踏み出す節目の年、という訳でもないけれど、お浅間さんに初詣に行ってきた。ホントは、たまたま時間ができたからなんだけどね。写真も撮りたかったし。

 

今日は1月9日、もう参拝客はあまりいないだろうと思ってきたのだけれど、意外と人がいた。境内の看板に書いてあるけれど、浅間神社は、大歳御祖神社、浅間神社、神部神社の三社の総称だそうで、さらに境内社として、麓山神社、八千戈神社、少彦名神社、玉鉾神社があるそうだ。この七つ全てをお参りすると晴れて満願叶うそうで。

 

原付を特設駐輪場において、赤い鳥居の始めは、大歳御祖神社。最初から行列ができていてびっくり。皆さんに列に並んで順番を待ってお参りをしている。日本人はなんて行儀が良いんだろう。やはり神様の前では行儀良くしておかないと、願いも聞いてはくれないと考えているのだろうか。新しい社になったらしい。ここは嘗ての安倍の市の守護神で、農・漁・工・商業等諸産業の繁栄の守護の神だそうだ。商売の神様だから、僕としてもここはしっかり押さえておかないとね。行列ができているということは、他の多くの皆さんもこの神様の御利益を当てにしているということだろうか?

 

 

次は八千戈神社。もともとは徳川家康公の念持仏である摩利支天を祀っていたそうだけど、明治の神仏分離で八千戈神社と改められたそうだ。こちらは、幾多の苦難を乗り越えて道を開いたことから開運の神様だ。スポーツや武道、必勝の神様。

 

 

さて、次はこの石段を登らなくてはならない。子供の頃は、この急な階段が怖かった。上まで登るとちょっとした達成感があった。山の上の上には広場のような場所があって、見晴らしは良かった。この階段を上って右手に進むと麓山神社がある。そして左手に向かうと、なんと古墳がある。麓山神社は、浅間神社の木之花咲耶姫命のお父さんに当たる神様だ。この辺りの氏神様でもある。子供の頃は、ちゃんと石段を登ってこの神社に行かなくちゃダメだと言われた。そんなこともあって、僕にとっては浅間神社に行くということはこの麓山神社に行くということだ。受験とか就職ではここに来てお参りをしたものだ。今はこの石段がきつい。息がきれる。転げ落ちないようにしないと。救急車で運ばれたら恥ずかしい。木材や水利、春には田の神として豊穣を掌り、衣食住全般を守護される神様だそうだ。

 

 

ちょっとこじんまりした神社だけど、他の神社より高い場所にあるから、ちょっと特別な感じがする。そんなことはないのだろうけど。他の神社に比べて、お参りに来る人も若干少なめだ。

 

 

拝殿の後ろにある本殿。脇の小道から見える。僕はここに来ると、必ずこの横の位置から眺めて満足している。ここから東の方を望むと街並みが見えたのだけれども、今は木々が邪魔をして見えない。残念。

 

 

さあ降りるか、と石段に戻ろうとすると、参道と木々の間からのぞく陽の光がちょっと良い感じだ。ここも整備されて大分きれいになった。かつての、ただの山、みたいな荒々しい感じも良かったんだけどなあ。あ、かなり前にここで花見をしたことがあったっけ。その時、ちょっと頭がおかしいおばあさんが僕に話しかけてきたりした。何を言ったか忘れたけど、頭のおかしい人は神様の使いだ、なんてそのとき親から聞いた。そうなのかもしれない。

 

 

石段をこわごわ降りて、神部神社と浅間神社の拝殿にやってきた。手前は舞殿。浅間神社は、安産・子授け・婦徳円満の神だそうだ。富士山の木之花咲耶姫命、平安時代に富士宮の本宮から分霊を勧請したものだそうだ。だから本体は富士宮かな。山の上にお父さんがいるからね。少しこっちにあってもおかしくないわけだ。神部神社は大国主命。延命長寿・縁結び・除災招福の神だそうで、やっぱりここが一番人出が多い。大晦日から年明けにかけて大勢押し寄せる。小さな子を連れた家族連れや若いカップルが多いように思う。気のせい?

 

 

本殿を斜め横から見た。春になれば桜、夏は緑と美しい場所なんだけど、今は葉を落とした枝ばかりで寂しい。神部神社と浅間神社が並んでいる。

 

 

玉鉾神社は、学問の神様で試験合格祈願の神様。意外と知られていないのかもしれない。でも、僕の前にお参りをしていたご婦人は、僕が後ろにいるのも忘れてか、長いこと熱心にお願いしていたな。なんだろう、気になる。

 

 

少彦名神社は、医薬の神様、技芸上達の神様。現在改築中で、社の写真がシートに貼られていた。

 

 

これで、七つの神社を全て回った。満願成就の日も近いはずだ。今年は、というか、今年からの10年は、これまでの10年とまた違った流れになるような気がする。そういう予感みたいなの、感じたことない?気のせい?まあ、そうだとしても、きっと良いことが待ち受けているって思い込んで前進するのも悪くない。少しは勇気がわくってもんだ。頑張ろう。死ぬまでには、まだまだいろいろなことを経験できそうだ。

 

最後に忘れてはいけないのが、浅間神社の池。何か謂れがあるのかもしれないけれど、わからない。ただ子供の頃、4月のお祭りなどに来ると、よく露店でやきとりや焼きとうもろこしなんかを買って池のほとりで食べた思い出がある。亀がぽかんと浮かんでいたり、岩の上で甲羅を干していたりした。ほとりにある楠は、大分古いものらしい。なかなか堂々とした幹の太さだ。橋の脇と、池の東側と2本あるようだ。樹齢は200年から300年くらいだろうか?楠は、この浅間神社から遠くないところに若宮八幡の大クスがあって、それは樹齢1,000年近くじゃなかったかな?徳川家康が木陰で休んだというやつ。あれはなかなかすばらしい。

 

 

池の橋、かつてはもう少し地味なやつだったと思うけど、朱色の橋は映えるね。だいたいこの橋の上で小さな子供が鳩を追いかけたり池の鯉を見て騒いでいたりする。

 

 

この池も見方によっては、ちょっと神秘的な感じもする。実際に見ると、ただの池という感じだけどね。写真のマジックだ。ちょっと良い感じでしょ?何度も言うけど、実際は違う。ここには龍が住んでいて、駿府城天守の火災の時には龍が水を吹いて火事を治めたなんて話があると、ちょっと良いんだけどね。せいぜい、幼い僕が池のほとりでやきとりを食べたということぐらいか。僕が徳川家康みたいな大人物になったら、「やきとりの池」ぐらいにはなっているかもしれない。

 

 

草薙の古木に会う・草薙神社の大クス

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日本平でテニスをした後、草薙神社の大クスを見てきた。大きなカメラを持ってくるはずが、また忘れた。朝、テニスの時間に遅れそうになって、慌てて家を出たからね。だからiPhoneで撮った。綺麗に撮れるよね、最近のスマホ。ああ、僕のiPhoneはもう古い機種だけどね。

ここの大クスは幹が朽ちて外皮だけが残っているらしい。とはいえ、まだまだ樹の勢いはあって、脇から伸びた幹には枝葉が茂っているそうだ。草薙神社は日本武尊を祀った神社で創建は景行天皇53年。天皇がこの地を訪れて日本武尊を偲んでお祀りしたそうだ。景行天皇53年って、いつなのかはっきりわからないそうだけど、第12代の天皇だからかなり古い時代には違いない。ここに御神体として祀られていた草薙の剣は、686年に天武天皇の勅命で熱田神宮に移されたんだそうだ。ここにあればなあ。入り口の鳥居は苔むして歴史を感じさせる。

 

 

鳥居を過ぎると、木々の枝に光を遮られた石段が続き、その奥に光に満ちた境内が見える。ここが神聖な場所だということがすぐにわかる。

 

 

石段を登りきったところの脇に、古木はあった。根元に小さな社があって神の宿る木だということがわかる。太い幹があるはずのところは朽ちて外皮だけが残っている。くねくねと捻れうねっている。ただ、脇からは力強い幹が伸びて葉を茂らせている。樹齢千年余、この地に住む仙人のような感じだ。

 

 

大クスを過ぎるとすぐに立派な門があり、くぐると拝殿が現れる。こじんまりとはしているけれど、由緒正しき気配がある。この後ろに本殿がある。参拝。

 

 

本殿の南北両脇には摂末社としてそれぞれ9社が祀られている。参拝。

南側

北側

 

拝殿南側の舞殿には、龍勢が提げられている。初めて見たけど、案外長い。これが天にのぼる様はまさに龍だ。

 

帰りに大クスの前を通りかかると、根元の社だけが光を受けて浮かび上がった。ちょっと幻想的な雰囲気であった。参拝のお礼をしていただけたのだろうか。

 

河口湖からの帰り、星が綺麗だった。

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今年最後の河口湖からの帰り、朝霧あたりが奇跡的に晴れたので夜の富士山の写真を。あ、カメラの電池がない。あーあ、やっちゃった。充電してあったのを持ってくるの忘れた。仕方がないので、また今日も小さいカメラだ。コンパクトデジカメのちょっといいやつ。1時間くらい頑張って撮ったけど、まともなのはこれくらい。写真を撮ってみて初めてわかったんだけど、夜の空は結構飛行機が飛んでいるんだね。写真の空に直線的な光の点滅が写っちゃう。それに、月もじゃまだ。空の写真は難しいなあ。それにしてもこの日、行きは富士山に雲が掛かって、河口湖についたら濃い霧。諦めた帰り道、朝霧あたりは晴れているじゃないか!ついてるね、今年最後の河口湖行きに神様がプレゼントしてくれたんだね。それなのに電池忘れ得るなんて。小さいカメラでもなんとか写ったからよかった。かなり汚い写真になったけど、まあ仕方がない。でもね、実際の夜空はこんな写真と違ってとても綺麗だった。この夜空を写し取れるテクニックが欲しい。そうそう、真っ暗な中凍えそうになりながら写真撮ってたら、カップルらしき二人が車から降りてきて、綺麗ねーとかなんとか言いながら眺めてたっけ。おまけに、あんなんで写真撮れるのとか言っているのも聞こえてきた。ほっとけ。ちっちゃな写真だけど、写っている星はアンドロメダ座だろうか?四角い四つの星はぺガススの四辺形?富士山のすぐ上の明るい星は、おひつじ座のハマルだろうか?だとしたら、なんと僕は3月生まれおひつじ座なので、おひつじ座の星が僕を導いてくれたのかもしれない。そんなことないか。まあいいさ、自分だけでそう思っておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千年の杉、大クスに会う・有東木白髭神社、郷島浅間神社

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6日の日曜日は、有東木に行ってきた。先週までの藁科川上流探索から、今度は安倍川上流へと足を伸ばしてみた。ただ、安倍奥は遠いんだよね。梅ケ島や井川まで行くと1日潰れるから、僕的にはちょっと辛い。とりあえず今回は、わさび発祥の地有東木に。以前にも行ったことがあるから、だいたい様子は分かっている。とはいえ、有東木も案外遠い。こんなに遠かったかなあ。途中で、真富士の里に寄って休憩。ここは安倍奥ドライブの休憩スポットとしてよく利用されるんだけど、この日も混んでいて休むどころではない。昼食は諦めて有東木に向かった。急な坂道を登って有東木に着くと、まずは農林産物加工販売所うつろぎを覗いてみた。ひえ、ここも満員だ。みなさんドライブで来ているんだなあと。最近、オクシズって宣伝しているからね。紅葉目当てなのかな。ここでも昼食は諦めて、杉の大木に会いに白髭神社に向かった。神社前の展望台から有東木の集落を眺める。昼過ぎでもう山の影ができている。この季節は午前中に来た方がいいね、こういう山の集落はね。

 

 

白髭神社は、鬱蒼として昼なお暗い。神聖な場所だ。ドライブの人たちがあまり来ないのがいいね。

 

 

石段を登ると、舞台がある。神楽を奉納する場所だろうね。静岡市の無形民俗文化財になっている。一度見てみたいなあ。春秋の二回あるそうだ。

 

 

舞台の奥が拝殿になっているようだ。ここは襟を正して、まず参拝。

 

 

柄杓で手をあらって、あ、お賽銭がない。今日は勘弁していただこう。

 

 

お賽銭は持ち合わせがなかったけど、ちゃんと参拝してきた。中の社も厳かでいいね。

 

 

境内には、苔生した杉の大木が10本くらい。どこまでも高く、天に向かって伸びている。根元に立つと巨人に囲まれているようだ。でも、この杉の大木は根元に人間がいることに気がついていない。人間が動き回る地面は薄暗い闇の世界だ。杉は多分、光を求めて天に向かって伸びているんだろう。

 

 

根元から幹に青い苔に覆われている。根が大地から養分を吸い上げて、この太い幹を通ってはるかに高い先端にまで送り続けている。この幹の中には700年間の記憶が蓄積されているはずだ。

 

 

苔の深い緑は、写真では伝えられない。ここに来て、ちゃんと目で見ないと判らない色だ。うーん、感動ものだ。

 

 

白髭神社で自分な卑小さを思いさらされた後、人間の世界に戻ってきた。ここは山葵栽培発祥の地で、すでに有名だ。自生していたものを人が栽培し始めたのがこの地なんだろうか。江戸時代には門外不出となったそうだ。伊豆山葵も有名だけど、この地から持っていったものらしい。

 

 

 

山葵は清流を好むので、こうした段々になって上から澄んだ水を流している。この辺りの渓流の脇にはこのような山葵田が沢山ある。

 

 

葉の色は澄んだ緑で、僕はいつもアマガエルを連想してしまう。何故かな?葉の色と質感がプリッとした感じで、似ていない?似てないか。でも、見ていて飽きない綺麗な色だ。

 

 

ここは、東雲寺というお寺さんにある山葵田。綺麗に積まれた石垣と段々と緑の山葵がとても美しいと思う。このお寺は盆踊りなんかもやるらしい。国の重要無形民俗文化財になっているらしい。

 

 

水がとても綺麗で澄んでいる。それだけで、山葵はいいものなんだろうなあって思わせる。僕としては、お蕎麦の薬味としては良いんだけど、わさび漬けはどうもいけない。いい品物なら美味しいんだろうか?それにしても、山葵の緑、苔の緑、木々の緑、どれもとても深い色をしているな。この違いを同じ緑で表したくないね。かつての日本人は使い分けたんだろうね。文化は消えていくばかり。

 

 

有東木には茶畑も沢山ある。静岡はお茶だね。茶畑の風景は静岡の宝じゃないだろうか。とても美しいと思うんだよね。

 

 

帰りに、郷島の浅間神社に寄った。ここに樹齢千年の大クスがあるんだ。道路から少し奥まったところにあって、見落としちゃうね。周囲は民家があって車で根元のところまで行ける。背後に小山を背負っているようだ。

 

 

この幹が、何か巨大な象のような、強大な生き物の顔のような、とても威圧感がある。一枚岩の壁のようでもある。

 

 

見上げると広く高く枝を広げて、悠然としている。嵐なんかの時には、ものすごい唸り声を上げるんじゃないかって思ったりする。

 

 

 

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