用宗漁港周辺

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7月28日、台風が去って、いよいよ梅雨も明けたらしいけど、空は雲に覆われている。昨日は、安倍川の花火が昨年に引き続き今年も中止で、多くの市民をがっかりさせた。せっかく雨が上がって、特別予定のない僕は、愛車ベンリィくんで用宗までミニ・ツーリング。急にしらす丼を食べたくなったんだ。ベンリィくんは、風邪を切って軽快に走る。着いた。

 

 

着くことは着いたけど、もう2時過ぎだ。漁協直営のどんぶりハウスは営業終了。すみませんねえと、お店の女性が申し訳なさそうにそう言いながら片付けをしている。もう少しだけ、早く家を出ればよかったんだなあ。諦めて港を散策。この船でしらすを獲りに行くんだろうか?思ったより小さいんだなあ。あそこから海に落ちちゃったら、どうしよう。気の小さい僕は、ありもしないことを想像して怖がっている。足元の海面を覗くだけでも足がすくむ。

 

 

 

船も色とりどりで、結構可愛い。機関車トーマスたちみたいに、今日は天気が悪いなあとか、いまのうちにゆっくり休んどくかとか、船同士で話しているかもしれない。

 

 

 

漁協のどんぶりハウスが終わっていたので、近くでどんぶりを食べられる店を探した。ここだ、ここだ。きれいに改装されたみなと横丁、オシャレな外観だ。

 

 

建物の真ん中が通路になっていて、左右にお店が並んでいる。昼は過ぎていたので、人はあまりいない。カフェや洋食屋、ヘルシーダイニングの店などが入っている。若々しくて清潔感のある内装のお店ばかり、昼頃は混むかもしれない。

 

 

僕はおめあてのしらすを食べたかったので、一番手前にある次郎丸さんに入った。ここはマルカイさんが運営しているようだ。マルカイさんといえば、呉服町通りの裏手にお店が出ていて、昼には近所の奥様やらがお買い物に来て人気だ。今日は、お手頃なおすすめ丼、ちょうど千円。煮物の小鉢と味噌汁が付いてくる。美味しいなあ。どんぶりハウスの生しらす丼も食べたかったけど。

 

 

漁港周辺をベンリィでゆっくり巡っていたら、洒落た建物に出くわした、これは入浴施設だ。お風呂だ。温泉だ、用宗みなと温泉というのだそうだ。

 

 

今日は温泉んい入る時間がないけど、恐る恐る中に入ってみた、売店やテラス席は温泉に入らなくても利用できるらしい。とてもおしゃれな感じ。テラス席で、港を眺めながらゆっくりしたいところだ。日曜日ということもあってか、なかなか混んでいる。家族で来ても楽しめるなあ。手ぶらで来ても、タオルのついたセットもある。

 

 

用宗みなと温泉のすぐ先が、用宗海岸だ。今日はあまり人が多くない。台風の後で波が高いかな?濁ってもいるなあ。あまり暑くもないかな。

 

 

用宗海岸から、漁港を挟んで東側に海岸公園がある。ここのシンボルは、難破した船。ヤシの木も雰囲気を出している。

 

 

小さな子供を連れた家族連れが大勢来ている。ここは子供も楽しいかもなあ。だだっ広い砂場、難破した帆船、遊具。駐車してある車を見ると、県外からも来ているらしい。日よけのテントやシートを敷いて、くつろいでいる。お金もあまりかからなくていいかもなあ。

 

 

難破船が、なかなか良い形に作られているなあ。真ん中で折れて、前と後ろがせりあがって帆柱が真ん中に傾く姿が良い塩梅だ。うまく作られているなあ。この公園は、小さい子供さんのいる人に勧められるな。ま、とりあえず今日はここまで。帰ろう。畑に行かなくちゃ。

 

薩埵峠〜由比本陣公園

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自分史上空前絶後の9連休最後の日、午後から天気が良くなったので、原付でミニツーリングだ。薩埵峠からの絶景を、まだ実際に見たことがなかったので、ちょうどいい機会だ。ただ、非力な愛車ベンリィ50sで峠を越すことができるのかどうなのか、かなり不安だ。まあ、万が一のときは担いで登るか。そんなことはないだろうけどね。

 

家から北街道をまっすぐ進んで、JR清水駅にほど近い国道一号を左に曲がる。そのあとは、またまっすぐ進む。バイパスと東海道線をくぐったら興津の街だ。坐漁荘や清見寺が道路沿いに見えても、なおまっすぐ進む。52号線の曲がり角も通り過ぎて、興津川を渡ってすぐを左に曲がる。まっすぐ走って、東海道線を潜ったら右に曲がる。まっすぐ進んで緩やかな登りの農道がしばらく続いた後、不意に急勾配が現れて、焦ってローギアでなんとか登りきると、峠の展望台に着く。20キロ弱の道のりだけど、遠かった。北街道だって、久しぶりに走ったら、だいぶ景色が変わっていた。興津だって、興津はあまり来たことがなかったなあ。山梨に行く時だけか。

 

展望台は、駐車場とトイレがある。目の前に駿河湾、伊豆半島、左手の山と海岸が接するところに、東名高速、東海道線、バイパス、その先に富士山。今日は富士山は雲の中。ここからの眺めも悪くはないが、違う。まだ別の場所があるはずだ。と思って細い段々の道を下って山道を進むと、デッキが現れる。ここだ。よく雑誌やテレビで見る景色は、ここからの眺めだ。線路と道路のカーブの重なり具合が美しくもある。ここを押さえられたら、太平洋側の東西交通は遮断してしまうんだな。デッキにはカメラが設置されている、ネットでもここの映像が見られるんじゃなかった?今日は、これだけでも満足。

 

 

峠を越えると、細い農道がだらだらと続き、また最後に急勾配の下り坂を落ちるように下ると、倉沢の集落に出る。細い道の両側には、古い民家風の家々が並び、タイムスリップしたかのような錯覚に陥る。原付でさーっと通り過ぎるのにはもったいない街並みだなあ。本陣跡や、有名なくらさわや、小池邸なども見どころ食べどころ。またいつかゆっくり来てみよう。今日は先を急ぐ。

 

連休最後の午後は、由比も人がいない。道路も走りやすい。混んでいると煩わしいけど、混んでいないと少し寂しい。わがままだなあ。今日の二番目の目的地、由比本陣公園に着いた。車の駐車場は由比川の河原にあるけど、原付の僕は公園脇の駐輪場にちゃっかり置かせてもらった。だから、道路からの入り口ではなく、脇の入り口から中に入った。立派なもんも、内側から見ることになった。ここには、確かできたばかりの頃に来たことがあった。変わるものではないけど、変わっていないような感じだ。この芝生のところに本陣の建物があったとか。

 

 

東海道広重美術館。本陣公園の奥にある、ちょっとモダンな建物がそう。入館料500円。広重の作品が展示されている。よく見るものもあるけれど、写真などで見るものと違って、精彩で繊細で、とても美しい。見ていて飽きない、いつまでも見ていたい気持ちになる。売店で作品のはがきや本などが売られているけれど、実物を見てしまうとその違いが際立って買う気にならない。僕は、ここができたばかりの頃に来て、やはりその美しさに驚いたけれど、今回もまた驚いた。

 

 

 

明治天皇が休憩されたという、御幸亭。こじんまりとしてはいるけど、品格のある建物だね。建物の前には池があって、池の周りをめぐる池泉回遊式の庭園になっている。ここの池には、かなり大きな鯉が泳いでいて驚いた。

 

 

広くて清潔な玄関。入館料150円、お茶付き。

 

 

ここが一番の座敷かな。一番奥の座敷で、縁の向こうに庭が見える景色がいいよね。

 

 

座敷から見えた枯山水の庭。小堀遠州の作という。広くはないけれど、眺めていると清々しい気持ちになる。今の季節は緑も綺麗だ。

 

 

軒下の靴ぬぎ石かな、これはさざれ石なんだそうだ。小石が集まり固まっているようだ。

 

 

南側の縁がついた部屋から前庭の池が見える。大きな鯉が潜んでいる。この、写真を撮っている僕の背中側には、結仁斎という茶室がある。この日は、お茶はなかった。

 

 

外に出て、池をぐるりと回って御幸亭を見る。洒落た外観だよね。この庭には、家康お手植えの松と、家康の馬を繋いだ榧の木があって、そのことから山岡鉄舟が松榧園と名付けたそうだ。松は落雷で枯れたそうだ。

 

 

庭の一角にある、榧守稲荷社。由比本陣の屋敷神様。小階段を上った奥に祠がある。

 

 

 

見性寺と中勘助文学記念館

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見性寺は曹洞宗のお寺、山号は楠谷山。ご本尊は如意輪観世音菩薩。藁科街道を上がってカインズを通り越して暫くしたら右手に曲がって突き当たり。大きな木々に守られるように寺はある。ちなみにこの参道の手前には、中勘助文学記念館がある。帰りに寄ってみる。

 

 

参道の途中にある六地蔵様。赤い頭巾に肩掛けが可愛らしい。

 

 

参道の脇の道、その道の一段高くなったところに、輔苦離佛堂(ぽっくりぶつどう)がある。ここにお参りすると安楽往生、延命天寿、身体健全の願いが叶うという。戸が閉まっていて、中は見えない。

 

 

これは永代供養塔だろうか。お地蔵様や墓石が隙間なく並べられている。なかなか迫力だ。

 

 

 

山門から参道がまっすぐ伸びて、階段を上ったところに本堂がある。階段までの参道の両側に、また境内のあちこちに赤い実をつけた南天が植えられている。

 

 

 

 

 

ルビーののような赤い実をたくさんつけている。葉も赤みを帯びているけど、寒いから?

 

 

参道の階段を上ると、右手に大きな鐘つき堂が見える。

 

 

この鐘をついて、輔苦離往生佛にお参りするんだそうだ。ご夫婦で来ていた方がついたら、物凄い音量でグワーンと響いて驚いた。すごい。

 

 

鐘の隣の梅が美しい。梅の花って、きれいだよね。改めて思った。梅は曹洞宗の開祖道元が好んだんだっけ?

 

 

鐘の横の池には、鯉がたくさん泳いでいる。100年棲息の鯉がいるって看板に書かれていたけど、何れかわからない。人面魚のようなものもいる。

 

 

これが本堂だろうか?

 

 

本堂脇の高野槙。秋篠宮悠仁親王のおしるしになったと説明書きがある。この木は直接関係はないだろうけれど、それにしても立派な高野槙だ。

 

 

参道のあちこちにはお地蔵様、仏様があちこちにいる。南無阿弥陀仏。

 

 

 

 

参道を戻って、中勘助文学記念館に行く。かなり前にここに来た時は、こんな立派な記念館ではなかったように思う。市が整備したんだね。平成7年の開館だそうだ。

 

 

内部は、昔懐かしい日本家屋。柱や梁は太くて黒光りしている。

 

 

縁側に古いミシンが置かれていた。

 

 

銀の匙が掲載された新聞。

 

 

夏目漱石からの書簡、何が書かれているのか、字が読めない。かなり崩した字で書かれているように思うけど、昔の人はこれが普通だったんだろうね。

 

 

 

こちらも同じ。

 

 

茅葺屋根の杓子庵。部屋はかなり狭い。畳の部屋と物置のような部屋の二つばかり。

 

 

この茅葺の屋根は、かなり費用が掛かったんじゃないだろうか。だいぶ厚さがある。雨が降っても音がしなくて静かなんじゃないかな。見ていると美しく思えてくる。平成4年に復元されたとか。こういうところで、畑を耕しながら生活するのもいいかもしれない。うちの新間の畑に小屋をつくって住むとしたらどうだろう。もう少し煩悩をなくさないとできないな。中勘助が静岡にいたのは、昭和18年10月から4年半くらい。杓子庵には1年半くらいだそうだ。

 

 

まだまだ修行が足りない。

 

駿府城公園・紅葉山公園

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2月11日、駿府城公園でレンズテスト。コンタックス50丕院ィ瓦肇撻鵐織奪ス35丕魁ィ機今日は寒くて雲が厚い。自転車で走ると手が痛い。公園に入ると、すぐにこの屋台が出迎えてくれた。ここは、県庁側から入って遊具のあるスペースの横の売店。確かあまり目立たない地味な売店だったはずだけど、いつの間にかこんなお洒落な屋台を置く売店に変わっていた。前半戦はコンタックスで撮ってみた。

 

 

静岡おでんをメインに売っているようで、屋台に飾られたお品書きも全ておでんに関係したものと思われる。た、おばちゃんはおでんではないと思うけど。しかし、こんな可愛い屋台を店先に置くとは、おばちゃんは只者ではない。今日は時間がないので、おでんは止めておいた。

 

 

公園のあちこちにポツリポツリと花をつけた木がある。これは、河津桜かな?

 

 

二の丸水路、内堀から二の丸に荷を引き込むための水路、じゃなかったかな?かつては清水港まで船で荷を運べた、ということじゃなかったかな。

 

 

梅の木もちらほら、花をつけている。

 

 

今日の主な目的地、公園内の紅葉山庭園。この時期は、緑があまりきれいではないけれど、何かはなものがあるかもしれないと思って、写真の練習に来てみた。入園料150円。入ってすぐに東屋があるんだけど、そこの周りに梅の木があるんだ。だいぶ花をつけている。梅の木は、もじゃもじゃっとした枝がいいよね。

 

 

東屋から奥の築山を見る。あれは富士山をかたどっているんだっけ?段々は、お茶畑だったかな?今日は赤茶色。ピントが来てないね。無限遠が出ないというのはこのことか。

 

 

これは枝垂れ桜だったかな。ちょと自信がない。やっぱりこのもしゃもしゃーっとした枝の感じがいいね。

 

 

庭園の奥にある「もみじ亭」、お茶と和菓子のセットが美味しかった。今日は時間がないので、ここも止めておいた。確か内部は数寄屋造残った造りで、静かなひと時を過ごすことができる、はずだ。

 

 

滝を落ちた水が川となって池に流れ込むという趣向。

 

 

ここは夏場に来るととても涼しげで癒される。冬でも緑がきれいでいいね。

 

 

散策路をぐるりと回ると、富士山の築山の麓に出る。そこから庭園全体が見渡せる。こうして見ると、県庁別館が景観を台無しにしている、と思うなあ。別館がなくても東館が。

 

 

築山はこんな感じ。この二つの石はなんだっけ?

 

 

池の真ん中には中島、対岸には小山が。これは駿河湾と伊豆の風景を表したものだったかも。これ以降の後半戦は、ペンタックスの35弌しかしこのレンズをつけると、シャッターを押すとエラーになったりならなかったり、動きが怪しい。

 

 

この日は、三味線の演奏とファッションショーが行われる日だった。そうとは知らないで来てしまった。ラッキなのかアンラッキーなのか。次第に人が増えて、カメラを首にかけたご高齢の男性たちがあちこちにいる。カメラ愛好家の撮影会みたいになっている。華やかな着物を着た女性たちの写真を撮るようだ。やはりこの時期の撮影対象は、梅の花か着物美人であるらしい。僕もカメラ愛好家の先輩たちに混じって違和感がない。いやそうじゃない。僕は梅の花を撮りに来たんだ。ああ、三味線の男性はきりりと姿勢がいいね。

 

 

和服美人には目もくれず、僕は梅の花を撮る。あずまやの周辺に梅の木は赤や白のかれんな花をつけている。まだ満開ではないようだけど、なかなか風情があってよろしい。

 

 

赤い花の梅の花。品種はわからない。

 

 

同じく赤い梅

 

 

白い梅の花。

 

 

これは寒桜、らしい。花は終わりかけているようだ。

 

 

大きくて堂々とした梅の木。曇り空が寒々しい感じを出している。

 

 

まだまだ修行が足りない。

洞慶院

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2月3日、日曜日。畑仕事に行く前に古いレンズの試し撮り。遠くに行く時間がないので、畑に行く途中に寄れる洞慶院に行って来た。ホームページを見ると、蝋梅が見ごろだそう。藁科街道を登って、久住谷川橋の手前を曲がって川沿いにずんずん進むとたどり着く。無料の駐車場があるから助かる。梅の頃は混雑するかもしれない。車を降りるとすぐに梅園がある。この梅園は、曹洞宗の開祖道元が梅の花を好んだことから代々住職が植え継いできたものだそうで、約400本の梅の木が植えられている。花の頃はさぞや見事でしょう。今日は残念ながら枝ばかり。洞慶院は久住山洞慶院と言い、およそ560年前の宝徳年間に石叟円柱(せきそうえんちゅう、曹洞宗の高僧)がこの地を訪れた時に現れた白狐の霊告により寺が建てられたという。

 

 

花がないので梅園は通り過ぎて、川沿いの道を登ると、4本の杉の大木に守られているかのような石橋が現れる。龍門橋。こういう景色はなかなか見たことがない。杉の木は樹齢400年。山門の代わりに植えられたとか。だとしたら、初めからこんなに大きな木ではなかっただろうから、それは何百年も先を見越してのことだったのだろうか。何かものすごく大きな知恵の形を見るようだね。

 

 

横から見るとこんな感じ。杉の大木が、入口を守る巨神のようだ。

 

 

橋を渡ると石段があり、その先の高くなったところに伽藍が配置されている。

 

 

石段を登りながら振り返る。やはりこの4本の大木と石橋の景色はなかなか素晴らしい。これを見られただけでも、今日ここに来た甲斐があった。いや、入口で満足していてはいけないけど。

 

 

石段を登った右手の手水舎に龍がいた。

 

 

左手には、鳥瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)を祀る明王殿。ただならぬ気を発している。

 

 

鳥瑟沙摩明王は、世の中の一切の不浄を焼き尽くしてしまうという、威力凄まじい仏様だ。中央に鳥瑟沙摩明王をお祀りしてある。その周囲に、左の入り口から入りぐるりと回って右の出口から出る通路がある。

 

 

ぐるりと回るその真ん中ほど、建物の奥に和式の便器がある。鳥瑟沙摩明王が不浄を浄化することから、俗に厠の神様として信仰を集めている。病気にならず、下の世話を他人にしてもらわなくても済むようにお参りするのだそうだ。しっかりお参りしておかなくちゃ。

 

 

さて、本堂は山を背負って立つ。お祀りするのは、千手千眼観世音菩薩。千本の手の掌にそれぞれ眼を持つとされ、どのような衆生をも漏らさず救済するという。本堂の裏に、御影堂、坐禅堂がある。

 

 

本堂前の大きな香炉。曹洞宗の場合はどういうお念仏を唱えればいいのだろうか?南無釈迦牟尼仏、でも、曹洞宗は修行、坐禅による悟りを重視するから、あまりこだわらないとも。

 

 

本堂に近寄ると「南無梅林観世音菩薩」と書かれた幟があるから、そう唱えればいいのだろう。「梅林」とあるけれどお祀りしているしている「千手千眼観世音菩薩」のことだね。

 

 

もう少しゆっくり見たいところだけど、今日は畑しごとをやらなくちゃならないので、切り上げて蝋梅を探す。境内のあちこちに、ポツンポツンとあるけれど、もう少しまとまってないものかと探したけれど、ない。探しているうちに、赤い帽子の可愛いお地蔵様がいたので覗いてみた。ここは、永代納骨堂で「永住殿」という。六地蔵尊は、六道全ての世界に現れて私たちを導いてくださるという菩薩様。この前には梅林。こういう場所で永遠の眠りにつくのも良いなあ。

 

 

ポツリポツリとある蠟梅。花言葉は慈愛、子を慈しむような深い愛情。黄色の小さな花が枝に付く様は、可憐で慎ましやかでもある。

 

 

これはなんという木か、やはり白梅かな?枝ばかりの梅林のあちこちに、ポツリポツリと花をつけた木がある。これは木の姿形がいいよね。

 

 

これも、賑やかに花をつけた数少ない木のひとつ。

 

 

蝋梅と白梅が重なっていい感じ。梅林の見頃はもう少し後、2月の中旬頃からだろうか?その頃にまた来てみたいけど、混みそうだ。

 

 

 

 

京都・哲学の道〜銀閣寺〜京都御所(2018・11・25)

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京都に来てから4時間近く過ぎた。お昼も過ぎてお腹が空いたところだけど、観光スポット周辺には田舎者一人が落ち着いてご飯を食べられるようなお店はない。哲学の道のどこかに甘味をいただけるところがあるかもしれないと思って歩き始めた。そうそう。哲学の道の南端は、永観堂の北東に位置する熊野若王子神社あたり。そこから銀閣寺まで約2キロの歩道が琵琶湖疏水沿いに整備されている。京都大学の哲学者西田幾多郎がよくここを歩いて思索にふけったということから、哲学の道と呼ばれている。学生だった頃に、僕は分かりもしないのに難しい本を読んで、その哲学的な雰囲気に憧れていたりもしたのでいつかこの道を歩いてみたいと思っていた。でもまあ、歩いてみればただの歩道だ。当たり前だけど。それにこう観光客が多いと、なおさら俗っぽく思えてくる。

 

 

歩道沿いの樹々は、ところどころ紅葉してはいたけれど見るものはない。桜の季節や新緑の頃の方が風情があっていいかもしれない。ときどき観光客が途切れて静かになると、疏水の流れる音と穏やかな陽の光に包まれて、急に自分の心と向き合うことになる。ここを歩くのは、観光客が少なくなるであろう冬が一番良いのかも知れない。途中、有名な和菓子屋さんやういろう屋さん、和風のカフェなどもあった。一人では入りにくい。

 

 

なんだか急ぎ足になってしまったけど、当然賑やかな小路が右手の山側に現れる。銀閣寺の参道だ。道幅の狭いところに古くから構えているような土産物店やたべもの屋などのお店が並んで、昔懐かしい感じがする。古い食堂や八ツ橋の店、漬物屋、にしんそば、京みやげ。古い食堂でお昼を食べようと思ったけど、座れそうにないので帰りにと思って帰りに寄ったら行列。昭和の匂いのする食堂でどんぶりでも食べてみたかった。

 

 

参道を突き当たると銀閣寺の総門。銀閣寺というのは通称で、東山慈照寺という臨済宗相国寺の山外塔頭寺院だ。金閣寺も同じ相国寺の山外塔頭寺院。相国寺は室町幕府三代将軍足利義満が創建した。金閣寺は、足利義満が邸宅とし政務をとった北山第を、後に禅宗寺院としたもの。八代将軍義政は、応仁の乱の最中将軍職を義尚に譲り、この地東山に山荘を造営して移り住んだ。銀閣は、義満の金閣を擬したもので、木造二階建ての楼閣建築(1489年、国宝)

 

総門を潜ってすぐ右手に折れて、中門まで両側に高い生垣が続く。銀閣寺垣というらしい。この辺りからすでに、背筋が伸びるような気配が漂っている。ただの背の高い生垣なんだけど、はっきりとした美意識が感じられる。歩いていたそのときは、少し雰囲気が違うなって感じただけなんだけど。中門で拝観券を買って入る。大人一人500円なり。左手に庫裏の入り口と簡潔な庭木、筋状に整えられた砂、右手には銀閣が見える。え、いきなり本題か、と驚かされる。

 

いやいや、まだ先がある。続いて目の前に現れたのは、円錐台形に砂を盛った向月台(こうげつだい)、大きなステージに線を描いたような銀沙灘(ぎんしゃだん)、さらに深い錆色の銀閣。誰もが、突然眼前に広がる趣向に圧倒される。虚飾を削ぎ落とし本質を単純な線で表した砂の造形が、庭園に配された建物、樹々や池、さらには背後の東山、見上げる空とも見事な調和を果たしている。夜ともなれば、窓から漏れる柔らかな明かりや月星の澄んだ光が、庭園全体を幻想的な世界に仕上げるだろう。その美しさを想うと、僕たちが住む現代社会のなんと低俗軽薄なことだろう。

 

 

向月台も銀沙灘も、製作された意図ははっきりとは分からないそうだ。この形になったのは、江戸時代後期ということ。創建当時は、会所や常御殿といった大規模な建物が建ち並び、東に池泉回遊式庭園と裏山に枯山水庭園を築いていた。戦国時代には戦火に見舞われて寺は荒廃したが、江戸初期に再建改修されて姿を整えた。向月台の辺りにはかつて東求堂があったようだ。

 

 

国宝東求堂は、1486年(文明18年)建立。銀閣とともに創建当時の姿をそのまま残しているという。足利義政の持仏堂として建てられたもので、板敷の仏間には阿弥陀像が安置されている。仏間の北側の同仁斎と呼ばれる部屋は、書物を置くための違棚、読み書きのための付書院があり、のちの書院造りの原型となっている。また、茶室の間取りである四畳半の原型でもある。

 

 

東求堂から望む池の白鶴島。岩の集まった島の部分が鶴の胴で、左右の橋が翼を広げた姿。すると松の部分が鶴の首と頭になるのか。

 

 

洗月泉、山から湧き出た水が小さな滝となって流れ落ちている。泉に映った月が、さざ波に洗われているかのように見えることから名付けられた。お金が投げ入れらているのは、御利益を得たいという心かな。

 

 

山の上の園路から見た銀閣。緑に赤、黄が混じって綺麗だ。池泉回遊式の庭園だから、錦鏡池を中心として周囲に園路が巡らされ、庭園を様々な位置から楽しむことができる。

 

 

錦鏡池の対岸から見た銀閣。ここからの風景がとても絵になる。銀閣は通称で、観音殿(かんのんでん)という。1489年(長享3年)に建設された。上層は仏殿風の潮音閣。板敷、格天井の一室で、観音菩薩坐像を安置する。下層が書院造りの心空殿。八畳大の板敷仏間、六畳畳敷きの間、3畳大の小室2室がある住宅風の造り。鹿苑寺金閣に倣い、西芳寺の舎利殿を参考にして建てられたという。時間があればゆっくりと見たいところ。今日はこの佇まいを鑑賞できたことで良しとしよう。

 

 

銀閣寺を慌ただしく後にして、今出川通をせっせと歩く。通りに人の姿はないけれど、京大あたりまでくると学生が歩く姿もある。見るべきものはないけれど、素顔の街の顔がある。鴨川だ。賀茂大橋の上から南の鴨川を見る。川沿いに散歩をする人、網で魚を取る人、河原でトランペットを吹く人、鴨川は京都の人たちにとってとても身近な存在のようだ。橋の北側は鴨川と高野川の合流するところで、北には糺ノ森、下鴨神社がある。そうそう、このあたりに豆餅が美味しい出町ふたばのお店があるらしい。今日は先を急がなくちゃ。

 

 

鴨川を渡ると程なく、左に御所の森、右手に同志社のキャンパス。緑豊かな良い通りだ。途中から瓦屋根がついた塀に変わる。五本線の入った塀は天皇皇族の御所などに使われる格式の高いものだと聞いたことがあるぞ。なんて考えながら歩いていると、門が現れた。同志社大学の正門まえの横断歩道を渡ったところ。今出川御門というらしい。烏丸通まで行くつもりだったけど、そろそろ中に入ろう、疲れたし。門を入って広くて長い道を歩くと、朔平門がある。これは内裏を囲む塀にある門の一つ、北の門。この門の向こう側に見えるのは、皇后、皇子皇女の御殿であるらしい。

 

 

朔平門を正面に見て右手方向に進み、更に西北のかどを左に曲がって進む。なかなか距離がある。それに一面に敷き詰められた砂利はとても歩きづらい。あー、足が痛い。少し先に人が集まっているところが見える。あそこが御所参観の入り口、清所門(せいしょもん)。門から入るときは手荷物検査を受けるけど、比較的簡単に入れてくれる。そうそう、平安遷都当時の大内裏はここから1.7キロ程西側にあったそうだ。この地が内裏として使われたのは、14世紀南北朝時代に北朝の内裏として使われてから明治の東京行幸までの間の約550年間。この間幾たびか整備再建拡充が行われた。

 

 

内裏の中に入ると順路の表示はあるけれど、何処が何でどういうものかということは事前の下調べをしてこなかったのでよく分からない。急に来ることにしたからね、反省。只々、施設の壮麗さに恐れ入るばかり。この門は宜秋門。皇族や公卿、諸大名などだけが使えた。

 

 

御車寄(おくるまよせ)。宜秋門を通るとすぐのところにあって、昇殿を許されたものが参内する時の玄関。入ると控えの間である諸大夫の間や清涼殿、小御所などに通じる。曲線を活かした檜皮葺の唐破風屋根は優美で装飾的だ。この唐破風という形式は日本独特のものなんだそうだ。唐破風という名前からすると、中国風のスタイルかなと思うんだけど、そうではないらしい。昔はお洒落なものを唐風と呼んだらしい。唐破風は江戸時代に流行ったという。御所は江戸時代には何度か火災などによって焼失・再建されているので、唐破風の屋根もその頃取り入れられたものかもしれない。

 

 

諸大夫の間(しょだいぶのま)。正式な用事で参内したときの控えの場所。奥の方から、格の高い順に「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と呼ばれる部屋が並んでいる。それぞれの部屋には、虎、鶴、桜が描かれた襖絵があり、部屋の呼び名となっている。

 

 

こちらは新御車寄(しんみくるまよせ)。大正4年の大正天皇即位の礼に際して建てられたもの。それ以降の天皇皇后両陛下はここをお使いになるようだ。形は御車寄と同じではないだろうか。読み方が違う、お、と、み。

 

 

建礼門(けんれいもん)。京都御所の正門とも言うべき門。天皇陛下だけが通行することができる。皇后陛下は天皇陛下の同伴御場合のみ利用でき、単独では建春門を利用するそうだ。檜皮葺切妻屋根の四脚門。平安時代からの内裏南門の呼び名。この門の前で白馬節会(あおうまのせちえ、白馬を展覧し宴を催す年中行事の一つ)や射礼(じゃらい、弓の技を競う行事)、相撲節(すまいのせち、諸国から推挙された相撲人による対抗相撲)などが行われた。葵祭、時代祭りはこの門の前からスタートする。

 

 

建春門、東面の南側にある。檜皮葺唐破風の屋根。皇后陛下や皇太子殿下が使われたそうだ。

 

 

門を見てから、早速紫宸殿を見に行く。紫宸殿の前庭(南庭)は、一面に白砂が敷かれ、回廊に囲まれている。回廊や南庭、紫宸殿が一体として儀式のための空間となっている。しかし、今日は気持ちが紫宸殿に集中してしまっていたので写真を撮るのは忘れてしまった。それに紫宸殿の向かって左側の部分は何やら工事をしているようで、覆いの建物と足場が造られている。すっきりとした姿が見られず残念だ。紫宸殿は御所の正殿で、即位の礼など重要な儀式がここで行われた。明治、大正、昭和の三代の天皇の即位礼が行われている。元々は天皇の住む内裏の建物の一つであったが、次第に重要行事も紫宸殿で行われるようになった。この紫宸殿は、安政2年(1855年)に再建されたもの。入母屋檜皮葺き、総檜神殿造り。殿内には、中央に天皇の御座「高御座」(たかみくら)、その脇に皇后の御座「御帳台」(みちょうだい)が置かれているそうだ。紫宸殿前には、左に「左近の桜」、右に「右近の橘」がある。

 

 

 

 

 

左の工事用の足場が殺風景で残念。位置が右近の橘のところだから、養生しているんだろうか?中央の扁額に「紫宸殿」と素晴らしい字で書かれている。

 

 

紫宸殿の裏手に清涼殿がある。入母屋檜皮葺き、寝殿造り。紫宸殿と同じく安政2年(1855年)の再建。正面は東であることから前庭は東庭と呼ばれている。清涼殿は、天皇の日常生活の場で、政事・神事などの儀式も行われた。しかし、天正18年(1590年)に御常御殿に住居が移ってからは、主に儀式の場として使われた。

 

 

清涼殿の前には漢竹(かわたけ)と呉竹(くれたけ)が植えられている。呉竹(ハチク)の方が葉が細くて涼やかだ。それにしても、なぜ竹なのか?それに、大体、二本セットだ。やはり、儀式や祭事を行うから余計なものはなるべく置かないということだろいうか。それに、すぐ枯れたり痛んだりするようなものは穢れを呼ぶとして避けているのだろうか。儀式に使われたりするから、余分なものはなるべくない方がいいのかもしれない。

 

 

 

 

内部はよく見えないが、中央に畳を敷いた部分があり、天皇の日常の御座である「昼御座」(ひのおまし)と呼ばれる。その後方には、四方に帳(とばり)を垂らした御帳台(みちょうだい)と呼ばれるちょうどが置かれており、天皇の座所、寝所として使われた。他に、夜御殿(よんのおとど、寝所)、御湯殿上(おゆどののうえ、食事を用意する間)御手水間(おちょうずのま、調髪を行う間)、朝餉間(あさがれいのま、朝食をとる間)など日常生活に必要な部屋がある。中世以降は儀式の場として使われるようになり、天皇のお住まいは常御所に移ったそうだ。そうだろうなあ、夏は涼しそうだけど冬は寒そうだ。

 

 

北東の角を見たところ。清涼殿は、建物の中心部に母屋があり、その周囲に庇(ひさし)、東面にはさらに孫庇がつけられている。さらにまたのそ周囲には簀子(すのこ)縁が巡らされている。建物の周囲には南北に水が流れる石敷きの溝がつくられ(御溝水、みかわみず)、北側の一角に20センチほどの落差がある。これを滝口といい、清涼殿警護の武者を滝口の武士というのは、この近くの渡り廊下に警護の兵士が詰めていたことによる。平将門も、滝口の武士となり滝口小次郎と名乗っていた時期がある。

 

 

清涼殿の北東にある荒海障子(あらうみのしょうじ)。障子と言っても襖。平安京の頃からあったと言われ、内裏がその後いくども消失してもその都度再建される中で、荒海障子も古来からの図案を伝えて新たに描かれてきたそうだ。中国の山海経にある手長の国の者足長の国の者の記述に基づくもの。北側には、宇治の網代が描かれている。写真の左手、荒海障子の南側には昆明池障子がある。こちらは中国昆明池の風景、北側には嵯峨野小鷹狩図が描かれている。清涼殿を始め御所内の御殿は多くの障壁画で飾られているという。特別公開の機会があればじっくり見てみたいものだ。

 

 

東庭を出て左に折れ、屋根の無い門を入ると庭園のあるスペースに出る。左手に小御所(こごしょ)、その北に御学問所(ごがくもんしょ)、右手には御池庭(おいけにわ)が広がる。小御所は、入母屋檜皮葺き。外観は寝殿造りのようだが、内部は書院造り。鎌倉時代以降に建てられた御殿で、江戸時代には将軍や大名などの武家と対面するときに使われた。明治維新のときには、徳川慶喜の処遇をめぐって小御所会議が開かれた。現在の建物は、昭和33年に復元されたものだ。

 

 

 

小御所廊下には、水色が印象的な障壁画があるが、暗くてよく見えない。内部は上段の間、中段の間、下段の間の3室があり、その周囲に庇が設けられている。外部の建具は半蔀(はじとみ)で、上半分を跳ね上げるもの。

 

 

小御所の前に広がる御池庭園。手前に玉石を敷き詰めた州浜が広がる。この大きな玉石の州浜と広々した池、樹々の深い緑がダイナミックで素晴らしい景観を作り出している。様々な種類の樹々のそれぞれが素晴らしい姿で気品があるように思う。

 

 

奥に見える橋が欅橋。橋を渡って庭園内を散策しながら景観を楽しめる、池泉回遊式庭園。欅橋を渡って対岸をぐるりと回ってくることができそうだ。立ち入りはできない。池には、南から蓬莱島、鶴島、亀島の三つの島が配置されている。州浜の飛石の先は舟着だ。

 

 

小御所と御学問所の間にある蹴鞠の庭。

 

 

御学問所(おがくもんしょ)。入母屋檜皮葺、書院造り。御読書始や和歌の会などが行われた。内部は東西二列、各列三室の六室、総畳敷。慶応三年(1867年)には、明治天皇が王政復古の大号令をここで発したとされている。

 

 

御池庭の北側の入口を入ると左手に御常御殿、右手に御内庭。御内庭は、遣水(やりみず、水を引き入れて川のように流したもの)を巡らせて、名石名木を匠に配している。紅葉には少し早いのか、鮮やかさが今ひとつな感じがした。しかし、松などの緑が深く鮮やかで品格のある庭だ。

 

 

遣水にかかる土橋。対岸に茶室(錦台、きんだい)があるようだけれど、樹々の枝に隠れてよく見えない。灯籠の足が少し見えるようだ。しかし庭木が素晴らしい。

 

 

遣水を渡る石橋、鉄製の灯籠、中の島。ここも鶴と亀になっているようにも見える。

 

 

遣水の対岸に泉殿(いずみどの)が見える。泉殿は地震に備えた避難所として使われるもので、そのため屋根を軽くして造られている。紅葉の赤が美しく映える。傘の形に整えられた松も見事だ。

 

 

迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)に続く飛石と龍泉門(りゅうせんもん)。迎春は、孝明天皇が書見の場として建てた御殿。御涼所は、夏の暑さを凌ぐために建てられた御殿。この先は立ち入りできない。門の向こうは龍泉の庭と呼ばれる庭園があり、遣水の上を渡廊(わたろう)と呼ばれる廊下で結ばれた茶室(聴雪、ちょうせつ)がある。そこはさらに素晴らしい景色だろうと想像される。また、御涼所の北には、皇太子の御殿である御花御殿(おはなごてん)がある。さらに北の敷地には、皇后宮常御殿、若宮御殿、姫宮御殿などがある。

 

 

御常御殿(おつねごてん)は、天皇が日常生活を送るための御殿。入母屋檜皮葺き、書院造。内部は前後三列、合計15室がある。南の列には、西からs上段の間、中段の間、上段の間があり、床は順に一段づつ高くなって仕切りがない。これらは儀式などが行われた部屋だ。上段の間の東、帳台構の奥には剣璽(けんじ)の間がある。剣璽とは、三種の神器のうちの天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、草薙剣)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を言う。剣璽の間の東裏には、関白対面などに使う御小座敷下の間、御小座敷上の間、東面から北面にかけて、一の御間(普段過ごす部屋)、二の御間(食事をする部屋)、三の御間(女房が使える部屋)、次の間(女官の控え室)が連なり、天皇の日常生活する場所となる。外部に接しない中央部には、御寝の間(ぎょしんのま、寝室)、御清間(おきよのま、神事を行う部屋)などがある。御殿内は、男子禁制。

 

 

御殿の南の前庭、壺庭。手前は白梅、奥は紅梅。

 

 

御三間(おみま)は、御常御殿の南西に接する建物。東から上段の間、中段の間、下段の間の三室が並ぶ。涅槃会、茅輪、七夕、盂蘭盆などの行事がここで行われた。またかつては能舞台があり能を見ることもあった。

 

 

御三間の前を通って、参観順路は終わる。後ろを振り返ると、御三間、御常御殿の屋根が見える。紫宸殿から清涼殿、御常御殿まで、歴史の中に現れる建物の数々を直接間近に見た後はとても深い感慨が残る。神武以来の天皇を中心とした歴史の流れが、今の自分に繋がっているような感覚に捉えられる。

 

 

このあと京都駅に直行。京都駅は観光客でごった返していた。夢が覚めて現実に引き戻されたような気がした。静岡まで新幹線で立ちっぱなしでも、疲れも気にならない。ちょっとした高揚感。日帰りという短い時間でもとても沢山のものを見てきたような気がした。それぞれの建物、場所の、その歴史も一緒に見て感じて来たからだ。

 

 

 

京都・大谷祖廟〜南禅寺〜永観堂(2018・11・25)

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朝6時静岡発の新幹線で、8時ごろ京都に着いた。京都駅は、すでに大混雑。秋の京都を楽しもうと、誰もが朝からエネルギッシュだ。京都駅から奈良線、京阪電車と乗り継いで祇園四条駅で降りる。人はまばら。少し早く着いたので、花見小路通を歩いてみた。観光客が少ない通りは朝の澄んだ空気が満ちて気持ちが良い。通りの突き当たりに、建仁寺があるらしので、ちょっと覗いてみる。

 

 

花見小路から入り口を入ると、拝観時間前の境内にはガードマンが数人いるだけ。清々しい気持ちではあるけれど少し寂しい。建仁寺は、最古の禅寺で、開祖は栄西禅師。日本にお茶をもたらしたことでも有名。この三門は浜松の安寧寺から移築したものだそう。静岡県に縁があるんだね。

 

 

静かな境内をぐるぐる回ると、近所の住人と思しき人や僕のようなはぐれ観光客がゆっくり散策している。雑音の少ないお寺を歩くのは、なかなか良いものだ。ご本尊が安置されている法堂、静けさの中。

 

 

ここは栄西禅師が入定した(亡くなった)地、楼門の奥に開山堂があり、栄西禅師の廊所(墓所)もあるそうだ。普段、公開されていない。そうそう、建仁寺の生垣は、茶祖栄西に因んでお茶の木なんだそう。建仁寺には、またいつか来てみたい。方丈の庭園や俵屋宗達の風神雷神図、双龍図、雲龍図なども見て見たいなあ。

 

 

建仁寺を出て、大谷祖廟に急ぐ。名も知らぬ路地に並ぶ家々は、作りに意匠が凝らされていてを見るだけでも楽しい。なんて思っていると、時間はすぐ経つ。八坂神社の脇から石畳の参道を登る。そして総門に着く。陽の光を後ろから浴びて荘厳。

 

 

昨年分骨に来て様子がわかっているので、まずはお茶所でお茶をいただく。お花と線香を買って御廟に参拝する。立派な御廟を見るだけでありがたい気持ちになる。南無阿弥陀仏。去年、ここの売店で買ったお線香がとても良い香りがして気に入ったので、今年もお線香を買ってから、大谷祖廟を出る。

 

 

大谷祖廟を出た後は、ずんずん歩く。円山公園を横切って知恩院の三門(国宝)を横目に見ながら、ずんずん歩く。しかし、でかい門だ。去年は本堂が修理中だったかな?あまり見た気がしなかった。

 

 

知恩院を過ぎて隣接するところに、青蓮院門跡がある。門跡寺院というのは、皇室や摂関家の子弟が住職となる格式の高いお寺のことを言うそうだ。歴代門主(住職)は法親王や入道親王が務めているんだそうだ。

 

 

先ず、この宸殿に驚かされる。このお寺は普通の寺院とは違うんだと思わされる。お祀りしているのはご縁のある天皇や歴代門主。宸殿前にあるのは、右近の橘、左近の桜。御所の紫宸殿と同じだ。かつて前庭には白砂が敷かれていたそうだ。

 

 

宸殿を庭の方から見たところ。入母屋造り桟瓦葺き。徳川家康の孫東福門院の御所を移転したものだそうだが明治に焼失、その後復興したものということ。親鸞聖人はここで得度を得たのだそうだ。

 

 

宸殿と小御所の間の黄色のもみじ。朝日を浴びて神々しい。写真でその美しさが伝わらないのが悔しい。僭越ながら、うちの庭のもみじも黄色に黄葉するんだ。今年は遅くてまだ緑。楽しみだけど、これほど美しくはない。

 

 

小御所から見た龍心池と相阿弥の庭。相阿弥は、室町時代に書画や造園、連歌、茶道に通じ、足利将軍に同朋衆として仕えた。しっとりとして美しい。華頂殿から眺めるのが素晴らしい。この日も、華頂殿の縁に座って庭を眺める人が多く、僕が入る隙がなかった。躑躅の咲く季節はさらに美しいようだ。

 

 

 

華頂殿の襖絵は、木村英輝氏(ロックな壁画家)。写真だと色がしっかり出ないけど、白と青と金の縁取りが妖しく美しい。

 

 

江戸時代天明年間に御所が火災に遭ったとき、後桜町上皇が青蓮院に仮御所として移られ、そのとき御学問所として使われたのがこの好文亭だそうだ。この日は、有料でお茶席が設けられていた。僕はちょっと自信がないので遠慮した。

 

 

こちらは本堂、熾盛光堂という。ご本尊の熾盛光如来の曼荼羅を安置しているのだそう。公開はされていない。この本堂の裏側には、国宝の青不動が安置されている。僕はそのことを知らないで本堂裏を歩いたら、少し薄暗い中にものすごい気を発している不動明王像があってとても驚いた。他に観光客は誰一人居合わせず、一人不動明王と対峙して、思わず合掌。異様な気配に驚いてなのか、はっきりと記憶していないのだけれど、画像の他に木像が二体あったような気がする。兎も角も、ここに来られたのも不動明王のお導きか。写真は撮れないけど、目にしっかりと焼き付けておく。と思ったけど、この日は焼き付けるべきものが多くて、はっきりとした映像を蘇らせることができない。印象は強烈だったので、いつか夢に現れてくださることを願おう。

 

 

青蓮院の格式の高さに恐れ入りながらも、次の目的地南禅寺に急ぐ。勘を頼りに、歩く歩く。すると、急に視界が開けた。ここは琵琶湖疏水の蹴上インクラインだ。琵琶湖疏水は船による輸送を行っており、落差の大きい場所では船を荷台に乗せて上下させていたもの。写真下の二本線台車を走らせた線路だろうか。琵琶湖から京都まで水を引くという明治の大工事だ。南禅寺にも水路閣という琵琶湖疏水を通す煉瓦造りの水道橋がある。今回は紅葉が目的だったのでチラ見で終わってしまったけど、いつかゆっくり見てみたい。

 

 

蹴上インクラインから南禅寺中門に向かう。駐車場のバスがたくさん並び、観光客がぞろぞろ歩く。南禅寺は、臨済宗南禅寺派の大本山。詳しくは、瑞龍山太平興国南禅禅寺。ここはもともと後嵯峨天皇が造営した離宮があったところ。亀山上皇が出家して法皇になった2年後に離宮を寺に改めて、無関普門を開山として龍安山禅林禅寺とした(1289)。のちに太平興国南禅禅寺と改められた。またその後、足利義満は、南禅寺を別格として京都鎌倉五山の上に位置付けた。日本の禅宗寺院の中でも最も高い格式を持つ。静岡県では、奥山方広寺が臨済宗のお寺で格式が高い。

 

 

中門を入るとすぐに目に入る巨大な門。上層に観光客が多勢見える。あそこからの見晴らしは、素晴らしいんだろう。石川五右衛門はここから南禅寺の桜を眺めて、絶景かなと名台詞を放った。混んでいそうだから、僕はやめておこう。今日は紅葉だし。

 

 

国宝、方丈。天正年間(信長・秀吉の頃)に建設された御所の女院御所対面殿を移築したものという。内部は六部屋からなり、狩野派の障壁画がある。写真は撮れない。薄暗くてはっきりとは見られないのが残念。小方丈には、狩野探幽筆の障壁画「群虎図」が展示されている。生き生きと描かれた虎は迫力十分だ。やはり少し暗いのが残念。複製だろうけど、撮影はできない。

 

 

方丈前の枯山水庭園は小堀遠州。座って眺める人が多いけど、こんなに人が多いと雑念に囚われて瞑想できないんじゃないか。と考えて、僕は先を急ぐ。

 

 

こちらは、六道輪廻の戒めを表す六道庭。天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界を生まれ変わるという世界観を表しているそうだ。高く立てた石、低く置かれた石の配置が、それぞれの世界をあらわしているのだろうか。

 

 

鳴滝庭は、渡り廊下に囲まれていてよく目立つ。手前に硯の形の大石が置かれているのだけれど、庭に目を奪われてはっきり覚えていない。

 

 

南禅寺も素晴らしかったけど、まだ先が長い。急ぎ足で見て回って永観堂に向かう。観光客が多いとじっくり見ようという気にもならないものだ。次はいつ来られるかわからないけれど、次に来た時ゆっくり見ようと考えてしまう。観光客の少ない時期に来るのも良いかも知れない。琵琶湖疏水、水路閣もゆっくり見たかった。

 

永観堂は、聖衆来迎山禅林寺という浄土宗西山禅林寺派の総本山だ。開基は863年(貞観5年)、空海の弟子真紹僧都。当初真言宗の道場であったが、中興の祖永観によって奈良三論宗系の浄土経寺院ともなった。さらに鎌倉時代の初め、浄土教の教えに帰依した静遍僧都が、亡くなった法然に住職を推し自らも住職となり、その後も法然の高弟に住職を譲るなどして、浄土宗西山派の寺院となった。永観堂というのは通称で、人々に念仏を進め救済事業にも取り組んだ永観律師にちなむ。紅葉の名所でもあり、古くから「秋はもみじの永観堂」と言われている。

 

南禅寺に隣接しているので、南禅寺方丈脇を鹿ヶ谷通に抜けて北に登ればすぐのところ。ただ、この道を利用する観光客はあまり多くはなかった。皆さんはバスで移動するからなのだろうか?総門をくぐると石畳の参道が伸びてすでに観光客がぞろぞろ歩いている。思ったほどの混雑でもない。去年東福寺の行列を見ているから、これくらいなら大したことはない。中門で拝観券を買うのもさほど待たされない。でも中に入れば、人は多い。拝観順路に従って歩くのは、前の人の背中を見ながら進むことになる。

 

 

人が多くてゆっくり見ていられない。後になって思い返しても、自分がどこを通って何を見たのか覚えていない。まあ、それほど日が多かったということ。これは、釈迦堂と方丈に挟まれた中庭。釈迦堂の縁に人がずらりと並んで腰掛けて庭を眺めている。庭を見るというよりは観光客を見る感じなんだけど。

 

 

人に押されるようにして、ずるずると中庭の反対側まで来てしまった。方丈の廊下を通って、古いガラスの窓から中庭を眺めて、部屋の襖絵を見て来たんだけど、あまり記憶に残っていない。この位置に来て、もみじの黄色が綺麗だったので写真を撮った。左に釈迦堂、右に古方丈 

 

 

人の流れに乗って進み、御影堂の脇の廊下に出た。五色の垂れ幕ともみじが綺麗だった。下の参道を登ると多宝塔に行くことができる。

 

 

後ろを振り返ると、紅葉した樹々の向こうに多宝塔が姿を現わす。紅葉は、時期が早かったのか、暖かくて綺麗に紅葉しなかったのか、色がいま少し鮮やかさが足りないような感じだ。

 

 

 

御影堂の裏側にある渡り廊下。開山堂、阿弥陀堂に続いている。光を受けて紅葉が綺麗だった。

 

 

渡り廊下を反対側から見る。渡り廊下の突き当たりには水琴窟。左に臥龍廊、斜面を登る階段が龍のように見える。右の階段を上ると阿弥陀堂に通ずる。石垣の上の松は、三鈷の松。珍しい三本の松葉を持つ松。この松葉を持つと知恵・慈悲・まごころの三つの福をえら得るという。財布にいれておくとお金が貯まるとも言われている。もらってくればよかった。

 

 

阿弥陀堂の脇の廊下から御影堂を見る。やはりこの五色幕と紅葉の取り合わせが美しいな。

 

 

阿弥陀堂の正面。ご本尊の阿弥陀様は、横を向いている。みかえり阿弥陀さまと呼ばれている。この阿弥陀さまには逸話があって、ある日永観律師が阿弥陀像の周りを念仏しながら歩く行道を行っていると突然阿弥陀さまが須弥壇を降りて行道を始められ、驚いて立ち尽くしている永観を振り返り、「永観、おそし」と声を掛けられたのだという。みかえり阿弥陀さまのお姿は、自分より遅れる者を待ち愛や情けをかけつつ、自分自身の位置を省みる心を表しているのではないかという。撮影禁止、意外と小ぶりだった。阿弥陀堂の写真は、観光客が多くて人物が写り込んでしまったので掲載はやめた。御影堂も同じ。多宝塔に向かう参道ではもみじと御影堂の美しい写真が撮れた。

 

 

急な階段を上って多宝塔に着いた。ここから見た京都市街は、素晴らしいパノラマ。永観堂の境内が赤く染まっているのが見られる。

 

 

法相池のあたりは観光客が一杯。どこを見ても人、大きな池の庭や紅葉を楽しむどころではない。振りかえると、赤く染まった樹々の間に多宝塔が見える。この景色が見れて、今日は満足。さ、次は哲学の道、その後は御所だ。急げ。

 

 

 

法明寺

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小雨が降る6月の日曜日、足久保の法明寺に行ってきた。街中からここに行くには、安西橋を渡ってすぐに右折、安倍川沿いの道を北に向かって走り、新東名高速をくぐって足久保川を越したら、足久保口組から美和街道を足久保川に沿って進む。美和街道を10分くらい車で走って、法明寺と書かれた小さな看板をみつけたら右手に折れて、足久保川にかかる橋を渡る。ここがわかりにくい。看板を見落としてしまう。橋を渡ると、左右に道は分かれているけど、どちらに行ったらいいのかわからない。上流の方だろうなと、勘を頼りに心細いまま進む。すると足坏神社とかかれた看板が目に入る。山を背にして鳥居らしきものがある。車を止めて、近づいてみる。これは神社だ、お寺ではない。

 

 

後で調べると、ここは足坏(あしつき)神社というのだそうだ。創建は奈良時代らしいが、詳しいことはわからない。しっかりお参りはしてきた。この神社の横に、SATOというカフェレストランがある。わからないままウロウロするのもおかしいので、昼食をいただきながら、法明寺の場所を聞くことにした。あと少し進めば、法明寺はあるそうだ。このカフェレストランは、工場のような建物を改装した感じで、ちょっと洒落ている。食事の写真はあとで載せよう。

 

 

細い道を車で登ればすぐについた。周囲は何もない。山ばかりがあるだけだ。こういうのを山寺というんだね。駐車場から細くて苔むした石を積み重ねた段々が山門に向かって伸びている。両脇の花木や石垣の様が荒々しく、鄙びた感じがして風情がある。特にこの季節は草木が勢いを増しているようだ。この法明寺は、723年に行基上人によって開かれた。まだ皇子であった聖武天皇が重い病になり陰陽師が占ったところ、都の東の国にある大楠がその寿命が尽きようとしており、命尽きた後も仏像となってこの世にとどまりたいという強い思いが病を引き起こしているのだという。そこで役人が調べると、駿河の国に楠の古木があることがわかった。命を受けた行基上人が駿河に下り探し尋ねると、足窪村に一本の大楠があった。上人は暫く眺めた後、道具を取り出して太い幹を切ろうとすると切り口から血が流れ出した。上人は平伏して、切った後は観音様にしてお祀りするからお許しあれと拝み、なお切り続ける。ところが、その切り屑は一日経つとまた元の幹に戻ってしまう。上人は、切り屑を杓子婆に片付けさせ、二十一日かけて七つに切り出し、7体の観音像を作ったという。これが駿河七観音の起源で、残る六体は駿河六箇寺に安置されている。

 

 

山門には、左右に小さいながら仁王像が据えられている。なかなか立派な門だ。

 

 

こちらが本堂。屋根には狛犬、花木の瓦飾りがある。

 

 

こちらは鐘楼。木々に囲まれた中で、優しい音がしそうだ。静けさの中に、鶯の声が響いていた。

 

 

こちらが観音堂。古びた石段と杉の大木のアプローチが、神聖な場所だと告げている。

 

 

この中に、行基上人が刻んだと伝わる観音像が安置されているようだ。中は暗くてよく見えない。軒には、大正の頃の巡礼と思われる一団の写真が飾られていた。合掌礼拝。

 

 

観音堂の脇には、行基菩薩と刻まれた石碑が祀られている。

 

 

観音堂前の石仏。花が活けられているのは、手厚いお祀りの印

 

 

一段上のこちらの石仏にも花が活けられている。まだ新しい花、お祭りするお寺さんのこころが知れる。

 

 

空は曇りで時折雨が落ちてくる。カフェレストランSATOには、法名寺に行く前に立ち寄った。ここは元は木工の工場か何かで、無垢の木材を使ったテーブルや椅子が軒下に並べられて客席としている。席から見える小屋は、木材を利用して作ったオブジェのような小屋で橋で繋げて遊具のようでもある。おしゃれだね。

 

 

ちょうどお昼時だったので、ここで昼食とることにした。エビとトマトのクリームパスタ。とても美味しい。ピザも一緒にと勧められたけど、腹八分目を心がけているのでパスタだけにした、コーヒーはお代わり自由だって。ピザも美味しそうだったなあ。ごちそうさま。意識したわけではないけれど、今日は駿河七観音の第1番にお参りできたので、この際全ての観音様を巡ろうかな、なんて思った。

 

 

 

花沢の里

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4月29日、このところ行けてなかった写真の練習に行ってきた。練習って、じゃあ本番はいつだ?まあ、それは良いとして、近くて良い風景の場所を探したところ、花沢の里に行くことにした。なかなか遠くに行けないんだ、時間もなくて。県内にはたくさん良いスポットがあるんだけどね。花沢の里は、焼津と静岡市を隔てる高草山を越える古道沿いの集落。焼津から国道150号線を静岡に向かって走ると新日本坂トンネルがあるけど、その直前の交差点を左に曲がって側道に入って山に向かうと、花沢の里の入り口に出る。20年近く前に一度行ったことがあるだけで、よく覚えていない。こんなところだったかなあ。集落に入る入り口の開けた場所に駐車場が整備されている。ハイキングに行った帰りなのか、駐車場に数十人が集まって何やら賑やかだったので、僕もその近くに車を止めて早速花沢の里に向かう。集落まで少し歩かなければならないんだ。一般車は通行を遠慮してくださいって、看板に書いてある。途中の道は左右の山が光を遮って、右手には沢が流れていて涼やかだ。竹の塀がいい感じ。

 

 

竹の塀が終わると、石垣に黒い板壁の家が現れる。ああ。ここだここだ。道の左手に石垣と長屋門が続き、右手は小川が流れている。この道は、奈良時代以前に、峠を越えるためにできた古道らしい。奈良時代以降は、岡部丸子の宇津ノ谷峠の道が発達したようだ。その分ここあまり開発されずに、古いたたずまいを残すことができたんだね。

 

 

長屋門は、門と作業場や住居のスペースを併せ持つ入り口で、お城の門のような立派な門だ。なんかちょっと、いいなあ。

 

 

小川のある側の家は、橋を渡して入るようになっている。川が堀のようでもある。あちこちで、無人販売の作物が置いてある。橋の上では家人が農作物を並べているところだ。ちょっと小さくて見えないかな。

 

 

長屋門の家が、道沿いに続く、そこをハイカーがポツリポツリと通る。観光地のようにぞろぞろ通ることはない。ポツリポツリ通るくらいでいいなあ。以前来た時は、ほとんど人通りがなくて、少し薄暗い印象ばかりが残ったけど、最近は観光地としてだいぶ整備がされたようだ。でもこれくらいなら良いかも。それに、ここは住民の生活の場でもあるし。

 

 

瓦が積み重ねられたところがあった。きれいだね。向こうに蔵もある。あの蔵は、カフェになっていて、コーヒー、ケーキが出される。帰りに寄ってみた。

 

 

集落の彼方此方に花がある。地域の人たちが植えたんだろうなあ。街の花壇のように植えられたものでなくて、自然に近い形で、そこに咲いている。好感が持てるなあ。かきつばた。

 

 

これは、こでまり?何気なく、そこに咲いている。

 

 

集落の奥に、法華寺という寺がある。入り口に置かれた仏様は、馬頭観音であるらしい。

 

 

お地蔵様が行儀よく並んでいる。

 

 

昔々、乳の出が悪かった母親が法華寺の門前で祈ったところ、大木の幹から観音様が現れて願いを叶えてくれたという。それからお寺では観音様を祀り、子育て安産を願う母親が絶えないのだとか。この辺りでは、「ちちかんのん」と呼び親しんでいるそうだ。

 

 

法華寺仁王門。仁王門の前に出るのには、細い階段上の小道を登らないといけないのだけれど、それとわかりにくいので注意が必要。うっかりすると通り過ぎてしまう。元禄16年(1703)に藤枝の大工伊左エ門によって建立されたという。左右に立派な仁王像が祀られている。

 

 

仁王門の脇には大きなイチョウの木が。秋に来たら黄金に染まって見事だろうなあ。

 

 

寺の創建は、奈良時代とも伝えられているものの、はっきりしたことはわからない。本尊は行基作と伝わる千手観音、本堂は江戸時代後期に再建されている。またここには、平安時代後期のものとされる木造聖観音立像(県指定文化財)も安置されているとのこと。

 

 

こちらは日枝神社だそう。お参りしてきた。

 

 

花沢の里も、ここが再奥。石段を進めば山道になる。鞍掛峠から満観峰に至るハイキンコースになっている。少し登りかけてみたけれど、道がぬかるんでいて滑りそうだし、家に戻って庭木の枝切りをしなくちゃならないの(言い訳)で諦めて引き返した。頂上からの景色は素晴らしいのだそうだが。

 

 

喉が渇いたので、帰りには庭カフェ、カントリーオーブンで休憩。長屋門をくぐった中庭がカフェになっている。蔵の中も内装を新しくしてテーブルスペースが作られている。僕は今日の日差しと風が心地よいので蔵の前のテーブル席を選んだ。

 

 

お昼を食べてないし喉も渇いていたので、注文したアイスコーヒーとビスコッティが出されるとすぐぱくついた。半分食べて飲んで、気がついて慌てて写真を撮った。コーヒーはドリップで淹れてくれるようで、濃いめの香ばしいコーヒー味が渇いた喉に染み込む。ビスコッティはチョコチップが入ってサクサクと美味しい。こういうところで生活したら、時間もゆっくり過ぎるのかもしれないなあ。

 

 

ごちそうさま。今日は良い時間を過ごすことができた。花沢の里は、今のままで、観光地としての整備はせず、あまり人が多勢来ない、静かな里であって欲しいな。

 

久能山東照宮

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4月2日日曜日、空の雲が少し厚い日、久能山東照宮に行って来た。駿河区聖一色の東豊田交番の交差点からロープウェイの日本平駅まで車で10分くらいととても近い。駐車場も広くて、車を止めるのに困らない。ロープウェイは5分おきに出ているということで、ほとんど待たないで乗れる。往復1100円、久しぶりに乗った。今日は街中で静岡まつりが開催されているので、観光客もそんなに多くはないようだ。臆病な僕は、ロープにぶら下がった乗り物が急に落ちたりするんじゃないかとヒヤヒヤしていた。でもすぐに慣れるもので、そんなことは忘れて窓から見渡す絶景に見惚れていた。

 

 

振り返ると日本平からだいぶ離れて下は深い谷、90メートルくらいだって。屏風谷は切り立った断崖絶壁、案外迫力がある。残念ながら海側は曇っていて海らしく見えなかった。

 

 

久能山駅に着いてしまえば、乗っている時間は意外と短い。もう少し乗っていたかった。道中、ガイドさんが屏風谷や久能山のことを説明してくれて飽きさせない。なかなか快適だった。久能山駅に着くと、そこに御神木の楠がある。樹齢500年だそうだ。近くで見たかった。

 

 

駅を出ると、しだれ桜が出迎えてくれた。社務所と売店の間、高いところから降り注ぐような桜の花。まだ満開ではないようだけど、華やかな春の空気が満ちている。

 

 

 

社務所を過ぎて、まずは今回根性がなくて登れなかった石段を上から眺めようと海の方に進む。すぐ左手に、小さな瓦屋根を持津井戸が目に入ってくる。「勘介井戸」と書かれている。なんでも、かつてここが武田信玄によって城が築かれたとき、軍師の山本勘助が掘ったと伝えられている。深さは33メートル、こんな山の上でも水が出るんだね。そもそもこの地は、平安時代に創建された久能寺があったところ、名称を補陀落山(ふだらくさん)久能寺と称していた。一時は僧坊も330あり非常に隆盛を極めていたという。行基や聖一国師なども訪れている。その後1568年(永禄11年)武田信玄が駿河に入ったときに、久能寺を今の撤収寺に移してここに久能城を築いた。武田氏が滅んだ後に城は徳川家康のものとなって、家康が駿府亡くなると(1616年)遺命によって遺骸を葬られた。そのときに社殿も整備され、本殿、石の間、拝殿(合わせて一棟)が国宝になっている。

 

 

井戸を過ぎて石畳を進むと、右に折れて一ノ門に出る。ちょっと雰囲気があるね。古くは櫓門だったそうで、明治期に暴風雨で倒壊したので平屋に改修したそうだ。この写真の右の方、門から入った突き当たりに門衛所がある。ここで入ってくる人を見張っていたんだね。

 

 

門をくぐると、目の前に海が広がる。木々の鬱蒼としたところから、急に光の溢れる世界に出た。左遠くに見えるのは伊豆半島だね。天気が良ければ、海と空の青が光溢れて眩しかったはずだ。

 

 

下を見下ろすと、急な石段がうねうねと下界に通じている。この石段を登ってくる勇気がなかった。下の鳥居から一ノ門まで909段、拝殿まで1159段だとか。

 

 

ちょっと下の方まで降りてみる。登るのがきつそうだから、すぐにまた戻る。昔登ったことがあったような気もするけれど、はっきり覚えていない。夢かも知れない。だいぶ前に来たときも、ロープウェイを使ったはずだ。下から登ってくる人も結構いる。子供もいる、犬もいる。下には無料の駐車場がないからね、を言い訳にする。

 

 

一ノ門まで戻ってみると、門はやっぱり渋い。

 

 

時間があまりないので、さあ奥にいそごう。見事なしだれ桜のその先には楼門が見える。入り口で参拝料500円を払う。博物館に入るかどうかは後で考える。

 

 

見上げると朱に塗られた門が覆いかぶさる。額は後水尾天皇の宸筆、「東照大権現」とある。左右の格子の中にはそれぞれ随身がいる。格子の上の壁面に獅子や獏に波の絵、門の裏には狛犬と獅子がいる。楼門と東照宮を守っている。

 

 

楼門を抜けると、正面に一段高いところに唐門と拝殿が見える。この右手には久能稲荷神社と厳島神社、左手には神厩(しんきゅう)。

 

 

朱塗りの鳥居をくぐって参拝。

 

 

埋葬当時は家康の愛馬を飼育していたけど今は木造の神馬、左甚五郎の作と伝えられている。白い可愛らしい姿が外からも見える。

 

 

手水舍でお清めしてお参りする。

 

 

鼓楼、元は鐘楼だったけど、明治の神仏分離で鐘を太鼓に変えたんだそうだ。

 

 

五重塔跡、三代将軍家光の命により建てられた高さ30メートルの五重塔があったところ。やはり神仏分離の際に取り壊されたという。中心にあった礎石を手前に移してか代わりに駿府城内にあった蘇鉄を植えている。

 

 

さて、さらに石段を登ると正面に唐門、ここは通れない。右手の参拝順路を進む。

 

 

その前に、さらに唐門を見上げる。石段の上の唐門は曇り空の弱い光を受けて鈍く輝いている。金と極彩色の華やかさを漆の黒が引き締めている。

 

 

拝殿右の石段を登って振り返るとしだれ桜が見事だ。青い空が少し覗くと良かったんだけどね。銅葺きの屋根と桜は似合うね。

 

 

 

拝殿の右脇にあるのは日枝神社。これも元は薬師如来をお祀りしていたのが神仏分離で山王社の御神体を納めたそうだ。参拝。

 

 

いよいよ、社殿に向かう。この東門は重要文化財になっている。朱の柱と緑の透かし塀、梁の金と青の文様、屋根の金箔が煌びやかだ。

 

 

東門をくぐると、そこには白無垢に綿帽子の花嫁と紋付袴の新郎の姿が。突然目の前に現れた光景に驚かされた。これ本当の結婚式かなあ?撮影用?それにしても、この光景は美しかった。ウェディングドレスもいいけれど、日本人は白無垢だなあ。綿帽子がまたいいね。角かくしよりいいなあ。場所が東照宮だからさらにいいね。黒漆と金箔の社殿が背景だから白無垢姿が浮かび上がるね。今日はいいもの見た。写真撮っちゃったけど、おめでたいものだから良いよね。支障があったらおしらせください。

 

 

新郎新婦は姿は、それがまるで夢だったみたいに見えなくなった。東照宮で結婚式っていうのもいいね、披露宴は日本平ホテルだろうか?なかなかいいね、僕には関係ないけど。それはさておき、拝殿の漆の黒が深い、黒と金と朱の取り合わせは力強くて豪華だね。所々の青が効いている。青は瑠璃色と言って薬師如来の放つ光の色だとか。暫く見惚れて言葉を失う。

 

 

唐門から境内を見る。楼門の向こうに海が見えると思ったんだけど、見えなかった、曇っているから?唐門も極彩色の神獣の透し彫りが見事。この門は通れない。特別な時にしか使わないんだろうか。

 

 

暫く見事な社殿に見入っていたけど、まだ先があると思い出して先に進む。拝殿の左側を通って行くと神廟の参道がある。と思いおつつ拝殿の側面を見る。完璧な美しさだよね。社殿は拝殿、石ノ間、本殿が一棟に作られている権現造というもので、ここが全国に数ある権現造の起源なのだそうだ。これより古い神社の社殿は、拝殿と本殿が一つの建物として繋がっていないんだと。石ノ間というのは、石が敷いてある訳じゃなく、て一段低くなった廊下が発達してような、相の間というものだそうだ。

 

 

振り返ると大蘇鉄、樹齢650年。神社仏閣に蘇鉄は多いけど、長く生きることから縁起が良いということなのかな。

 

 

本殿の側面がまた見事としか言いようがない。他の観光客も暫く言葉もなく見惚れていたよ。

 

 

ここは陰になっているので実際は少し薄暗い。でもそのため却って重厚さが際立っていた。黒漆に浮かぶ瑠璃色の獅子に目が釘付けになる。

 

 

本殿横から神廟の参道に通ずる廟門。小さいけれど、特別な場所に至るための特別な門という感じがする。

 

 

廟門から振り返ってみる。いつの間にか他の観光客もいなくなって、僕一人になった。人がいなくなると、ここは一層荘厳な空気に満たされる。

 

 

神廟に至る参道。家臣、大名が寄進した灯篭だろうか。石段を登って鳥居をくぐって右手に神廟がある。

 

 

現在の神廟は、創建当初は木造桧皮葺の造りであったものを三代家光のときに石造の宝塔に変えたとのこと。高さ5.5メートル、外廻り約8メートル。静寂の中で際立つ存在感。家康が亡くなった翌年に御霊は日光に勧請しているけれど、遺骸はここにあるんだろうね。棺に中に正装して座り西を向いているという。

 

 

木々に囲まれたひときわ静かな場所だ。神廟は西を向いているそう。西には家康の生まれた地岡崎がある、というより極楽浄土の方角を向いているんだろうね。

 

 

一通りお参りして気も済んだので、来た時と逆の行程で日本平駅まで戻った。あ、博物館は今回は止めておいた、時計は以前見たことがあるし、時間もあまりなかったので。ロープウェイで日本平駅まで戻ってついでに展望台に行ってみた。以前来たときと変わっているかも知れないなと思って。童謡「赤い靴」の像があった。これは昭和61年に設置されたもの。野口雨情の詩に本居長世が曲をつけて、誰もが口ずさんだ童謡は、実はモデルがいたそうだ。名を岩崎きみといい、明治35年旧不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)で生まれた。きみちゃんの母親は事情があって北海道に渡りそこで再婚することになって、3歳のきみちゃんは外国人宣教師の養女に出すことになったそう。野口雨情はその話を聞いて詩を書いたという。残念なことに、きみちゃんは実際はアメリカに渡らず、当時不治の病である結核に罹り、東京の孤児院に預けられて9歳という若さで亡くなった。そういう話を聞くと、この母子像もまた感慨をもって見ることができる。天国でお母さんと一緒に幸せに暮らしていると良いね。

 

 

展望台から見た清水の景色、曇っていて残念だけど、晴れの日とはまた違った雰囲気がある?真ん中に見えるのは三保の松原、折戸湾あたり。折戸湾周辺は開発計画があって、マリーナやホテルなんかが整備されるらしい。三保半島の向こう側が駿河湾で、その向こう少し右寄りに伊豆半島が見える。三保半島の先端、海を挟んで山が迫っているあたりが薩埵峠か。天気が良ければその向こう側に富士山が見えるはずなんだけどね。

 

 

展望台を後にして日本平ホテルに行ってみた。2012年の改築後は来たことがなくて写真でしか見たことがなかった。正面入り口からの景色が素晴らしいので一度来てみたかった。いやいや、これは素晴らしい。遠方からのお客さんを連れて来れるね。晴れていれば富士山と三保の松原、駿河湾と伊豆半島を見渡せる。テラスラウンジでお茶でもしたかったけど、待つようなので諦めた。

 

 

曇り空で写真はダメかと思ったけど、富士山がなくても、曇り空でもなかなか素晴らしい景色だ。夜景も良いだろうね。

 

 

全ての客室で富士山と三保、駿河湾の景色を楽しめるつくりになっているようだ。とてもモダンなデザインだよね、いつか機会があったら泊まってみたいものだ。アッパーラウンジからの眺めも良さそうだ。