日々の戒め(293)



もしも勤労そのものがあなたにとって第一義で、報酬は第二義であるならば、勤労およびその創造者なる神があなたの主人となるであろう。もし勤労があなたにとって第二義で、報酬が第一義であるならば、あなたは報酬およびその創造者なる悪魔の奴隷となるであろう。しかもその悪魔たるや、最大級に低劣な悪魔なのである。
(ジョン・ラスキン)

日々の戒め(292)



自分のことを柔和だという人は、本当は柔和ではない。自分は何も知らないという人は−実は賢い人である。自分は学があるという人は−ホラ吹きである。黙っている人は−最も賢く、最もすぐれた人である。
(ウエナマ)

日々の戒め(291)



飽食する人は怠惰と闘うことが困難であるが、飽食し逸居する人々にとって性欲と闘うことはさらに困難である。それゆえいかなる教えの場合も、節欲への精進の第一歩は、飽食の欲との闘争から、つまりもの斎(ものいみ)から始まるのである。
(トルストイ)

日々の戒め(290)



もし餌をむさぼる気持ちがなかったら、一羽の鳥も網にかからないであろう。人々もまた、食物の誘惑によって虜囚の身となる。口腹の欲の奴隷は−常に奴隷である。自由であろうと思うなら、何よりも−まず、口腹の欲から脱しなければならない。だから飢えをしのぐために食べて、食欲をほしいままにするために食べないようにするがよい。
(サアディによる)

日々の戒め(289)



飲食の不節制が罪悪とされないのは、それが他人に目立った害悪を与えないからである。しかしながら、人間としての自己の尊厳という意識に反する罪悪というものがあり、飲食の不節制はその一つである。
(トルストイ)

日々の戒め(288)



口に気をつけるがいい。病は口からはいる。君が食卓から立ち上がるとき、もう少し食べたい気持ちが残っているようであったがいい。
(トルストイ)

日々の戒め(287)



賢者ソクラテスは、いっさいの余分なもの、つまり飢えをしのぐためではなくて食道楽にふけるための食物を自ら節制し、弟子達にもそうするように説いた。彼は、余分の食物や余分の飲物は体にも心にも大きな害があると言い、けっして飽食することなく、まだもっと食べたいくらいのときに食卓を去るようにすすめた。彼はよく自分の弟子たちに、賢者ウリッスの話をして聞かせた。つまり、魔法使いの女ツィルツェヤも、ウリッスが飽食しないため、彼に魔法をかけることができなかったが、彼の仲間たちは、甘い食物に飛びかかるや否や、たちまち豚にされてしまった、と言うのである。
(トルストイ)

日々の戒め(286)



人々が長いこと論争している場合、それは、彼らが論争している事柄が彼ら自身にもよくわかっていない証拠である。
(ヴォルテール)

日々の戒め(285)



神に救いを求めるとき、われわれはそれを自分自身のうちに発見することを学ぶ。神がわれわれを変えるのではなくて、われわれ自身が神に近づくとことによって自分を変えるのである。われわれがぜひにと神にお願いするものはすべて、われわれが自分で自分に与えるのである。
(ルソー)

日々の戒め(284)



賢くなろうと思ったら、賢い質問をし、注意深く聴き、落ち着いて答え、言うことがなくなったら黙るがよい。
(ラファエル)