中原中也(7)



言葉なき歌

あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱の根のやうに仄かに淡い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女の眼のやうに遥かを見遣つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛の音のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜の空にたなびいてゐた

日々の戒め(9)



快活さは、浮かれた気分でもうぬぼれの表れでもない。それは最高の認識から生じ、愛から生じる気分だ。それは現実の一切を肯定する気分であり、あらゆる形の深淵と破滅の縁に望んで、なお、目覚めている状態である。
(ヘルマン・ヘッセ)

中原中也(6)



夏の日の歌

青い空は動かない、
雲片一つあるでない。
  夏の真昼の静かには
  タールの光も清くなる。

夏の空には何かがある、
いぢらしく思はせる何かがある、
  焦げて図太い向日葵が
  田舎の駅には咲いてゐる。

上手に子供を育てゆく、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
  山の近くを走る時。

山の近くを走りながら、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
  夏の真昼の暑い時。

静岡夏まつり 夜店市



紺屋町、呉服町、七間町の各名店街合同の夜店市が昨日(8月11日)から始まりました。今年で44回目だそうで、そんなに長くやっていたかなぁ。ということで、昨日は店を閉めてからちょっとのぞきに行ってきました。そしたらなんと、すごい人出。ちょろちょろ歩いて写真なぞ撮っていたら、邪魔でしょうがない(私のこと)。なんであれ、こんなに人が集まるとはたいしたものです。でも、出ているお店はそれぞれのお店がバーゲンセールをやっているようなものが多かったです。あと、ビールや焼きそばの類は青葉公園に集中してたかな。“夏まつり”というのと少し違うと思ったけど、まぁ、これだけ人が集まればたいしたものです。13日(日)まで開催だそうです。

日々の戒め(8)



我々が不幸又は自分の誤りによって陥る心の悩みを、知性は全く癒すことができない。理性もほとんどできない。時間がかなり癒してくれる。
これにひきかえ、固い決意の活動は一切を癒すことができる。
(ゲーテ)

尼ヶ崎稲荷神社



その神社は、古びたビルと倉庫の間にありました。間口2メートルの細い路地の入り口には真っ赤な鳥居があり、この路地と外界とを分けてます。鳥居をくぐると、ここが表の通りとは明らかに違う空間であることに気付きます。足下のコンクリートにはぬめりとするこけが生え、湿気を含んだ空気が淀んでいます。10メートル程すすみ、神社が見えてくると、急に脇から背の曲がった斑の犬がぼうぼうと吠えたてて、進入者を威嚇します。路地の突き当たりの少し広がった空間は妖気が充満して、足がすくみます。社の数体の白い狐から発せられているような気がします。なぜ“尼ヶ崎”なのか。あまり深く詮索はしない方が身のためか。引き返すと、斑の犬は眼だけをこちらに向けて、ぼうと一声吠えたのでした。

中原中也(5)




憔 悴

私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた
起きれば愁はしい 平常のおもひ
私は、悪い意思をもつてゆめみた……
(私は其処に安住したのでもないが、其処を抜け出すことも叶はなかつた)
そして、夜が来ると私は思ふのだつた、
此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其処を、やつれた顔の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面を、にらめながらに過ぎてゆく

   
昔 私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

今私は恋愛詩を詠み
甲斐あることに思ふのだ

だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

その心が間違つてゐるかゐないか知らないが
とにかくさういふ心が残つてをり

それは時々私をいらだて
とんだ希望を起させる

昔私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない

   
それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか

腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は青いよ

ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ

真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ

あゝ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!

   
しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ

人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配してゐるのだ

山蔭の清水のやうに忍耐ぶかく
つぐむでゐれば愉しいだけだ

汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな

やがては全体の調和に溶けて
空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……

   
さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂はれないですむだらうか、とかと

要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、

僕はあなたがたの心も尤もと感じ
一生懸命郷に従つてもみたのだが

今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに

さうしてこの怠惰の窗の中から
扇のかたちに食指をひろげ

青空を喫ふ 閑を嚥む
蛙さながら水に泛んで

夜は夜とて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。

   
しかし またかうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。

そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑が一杯です。
それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。

と、聞こえてくる音楽には心惹かれ、
ちよつとは生き生きしもするのですが、
その時その二つつは僕の中に死んで、

あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰をのがれるすべがない!

日々の戒め(7)



私たちは、生が残酷なもので、死が避けられないものであることを、悲嘆を通してではなく、この絶望的な事実を味わい尽くしながら、まず私たちの心に受け入れなくてはなりません。自然の残忍さや無意味さをすべて私たちの心に受け入れたときにはじめて、私たちはこの自然の生の無意味さと対決して、それを力ずくで意義のあるものにすることに着手できるのです。これこそ人間にできることのうちで最も価値のあることであり、人間にできる唯一のことです。そのほかのことは、家畜の方がずっとうまくやっています。(ヘルマン・ヘッセ)

めだか



いつものように、志お川さんでおでんを食べようと歩いてると、おばさんがバケツをもって道路を渡っています。どうしたのか聞くと、めだかを日陰に連れて行ってあげるのだと言います。よく見ると、布袋葵の陰に小さなめだかがチロチロと…。この暑さで、めだかも日陰のできる道路の反対側に避暑のようです。子どもの頃、家の前を流れる用水の小さな川には、めだかがいたっけ。人家を離れれば、蛍だっていました。日本は、つまらない国になっちゃったなぁ。(ちょっと大げさ?)(水槽じゃなくてバケツでめだか飼うのもいいなぁ)

中原中也(4)



少年時

黝い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。

地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆のやうだつた。

麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。
 
翔びゆく雲の落とす影のやうに、
田の面を過ぎる、昔の巨人の姿――

夏の日の午過ぎ時刻
誰彼の午睡するとき、
私は野原を走つて行つた……

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫、生きてゐた、私は生きてゐた!