青汁・遠藤語録(28)



青汁を飲むことは、いわば、太陽を飲むことだ。青葉は、大地のミネラルと太陽のエネルギーから生命を創造しているわけだが、青汁はその生命をそっくりそのまま利用しようというものである。だから、なるべくよく日光に当たった、自然に近い状態の、新鮮で生きのよい材料で作らなければならない。それは、手近にあるものでなければ、望めないのである。
(遠藤仁郎著「もっと緑を!」より)

日々の戒め(292)



自分のことを柔和だという人は、本当は柔和ではない。自分は何も知らないという人は−実は賢い人である。自分は学があるという人は−ホラ吹きである。黙っている人は−最も賢く、最もすぐれた人である。
(ウエナマ)

日々の戒め(291)



飽食する人は怠惰と闘うことが困難であるが、飽食し逸居する人々にとって性欲と闘うことはさらに困難である。それゆえいかなる教えの場合も、節欲への精進の第一歩は、飽食の欲との闘争から、つまりもの斎(ものいみ)から始まるのである。
(トルストイ)

遠藤:青汁語録(27)



質がよく青汁の材料としても向いているのは、ケール、ブロッコリーの外葉、養鶏用のカキハ大根の葉(普通の大根葉だと辛くなってしまう)、ニンジンの葉、カブの葉、小松菜、アブラ菜、シソなど。とりわけおすすめしたいのが、ケールである。成分がすはらしいこと、丈夫で育てやすく周年栽培できること、収量が多いこと、刺激が少なく味のよいことなどから、ケールの中でも木立の大葉種(ツリーケールと呼ばれている)が最適と考える。
(遠藤仁郎著「もっと緑を!」より)

日々の戒め(290)



もし餌をむさぼる気持ちがなかったら、一羽の鳥も網にかからないであろう。人々もまた、食物の誘惑によって虜囚の身となる。口腹の欲の奴隷は−常に奴隷である。自由であろうと思うなら、何よりも−まず、口腹の欲から脱しなければならない。だから飢えをしのぐために食べて、食欲をほしいままにするために食べないようにするがよい。
(サアディによる)

青汁・遠藤語録(26)



緑葉食のすばらしさについては、つとに述べた。しかしこれは、とり入れるナッパの成分が1〇〇パーセント利用されることが前提なので、栄養分の損失があれは理屈どおりにいかない。損失を少なくするには、熱を加えず生で食べるのが一番だか、かさばるものを充分かみ砕かなくてはならないため、なかなか難しい。
 そこで、青葉を生のまますりつぶして飲もうというのが、青汁だ。先ほど、平均食にケール四〇〇グラムを加えたら理想的な食事になると述べたが、四〇〇グラムの野菜を食べるのはけっこう難儀である。ところがこれを汁にしたら、およそコップニ杯分。これなら何でもなく飲めるはずた。すりつぶすことによって失われる成分も多少はあるかもしれないが、調理の熱や不完全なそしゃくで失うものよりはるかに少ない。また、汁にすることで、含まれているビタミン・ミネラルが非常に吸収されやすくなる。
(遠藤仁郎著「もっと緑を!」より)

日々の戒め(289)



飲食の不節制が罪悪とされないのは、それが他人に目立った害悪を与えないからである。しかしながら、人間としての自己の尊厳という意識に反する罪悪というものがあり、飲食の不節制はその一つである。
(トルストイ)

青汁・遠藤語録(25)



緑葉の中には、まだ栄養学的に解明されていない未知の成分が、どれだけあるか知れない。実際これまでに私は、どんな薬を使っても冶らなかった症状がナッパと青汁でよくなった、という事実に何度も遭遇してきた。ときには、青汁を一日一リットル以上も大量に飲んている人が、奇跡としか思えない回復ぶりを示したこともある。
 栄養のバランスということだけ考えたなら、さほど大量のナッパや青汁は必要ないはずである。それなのに、ケール四〇〇グラムどころか、その四、五倍もの材料を使った青汁で効果があらわれるというのは、どうしても、バランス以外の何かが関係しているとしか思えない。
(遠藤仁郎著「もっと緑を!」より)

日々の戒め(288)



口に気をつけるがいい。病は口からはいる。君が食卓から立ち上がるとき、もう少し食べたい気持ちが残っているようであったがいい。
(トルストイ)

青汁・遠藤語録(24)



良質のナッパを充分にとる「緑葉食」をおこなえば、そこから得られるビ
タミン・ミネラルの働きにより、ほかの食品からのカロリーがむだなく燃やされるため、全体として少食でも問題はない。まさに「粗食少食は長寿のもと」であるわけだ。
 これは私の経験上の事実ともみごとに合致する。つまり緑葉食は「完全食」であり、「粗食少食は長寿のもと」という言い習わしの科学的裏づけなのである。
(遠藤仁郎著「もっと緑を!」より)